四方田犬彦 人間を守る読書

・・・・・・表題の『人間を守る読書』とはどういう意味ですか?

これは批評家のジョージ・スタイナーが『言語と沈黙』(せりか書房)のなかで唱えていた言葉です。

彼はオーストリア系ユダヤ人としてパリに生まれたのですが、ナチスの迫害をおそれ、ニューヨークに逃れました。少年期にナチスの組織的な暴力を身近に感じたことから、「人間というのはもはや守られなくなってしまった存在である。われわれは生きているのではなくて生き残っているにすぎないんだ」という認識を持つにいたり、「だからこそ、そういう野蛮な時代には読書が人間を守る側に立たなければいけない。野蛮で暴力的ではない側に人間を置くために必要なんだ」と唱えたわけです。アウシュビッツの絶滅収容所の所長が夕べにはリルケの詩を鑑賞し、朝になるとガス室へ出勤していたという事実を前に、人間は文化をもう一度定義しなおさなければならないというのが、彼の立場です。

いまの日本は他人に対して非常に不寛容な社会になってきているように思います。まず目につくことでいうと、若者が人とぶつかったときに「すいません」といわなくなりました。彼らは先行する世代以上に抑圧され、排除されているため、他者を受けいれる余裕を失っているのです。こういうと、安っぽい道徳主義を振りかざしているように思われるかもしれませんが、リアルポリティックスも含めて誰もが非常に殺伐としているというのが現状です。人のことはどうでもいいという感じになってきた。そういうふうな、人々がお互いに不寛容になってきている状況だからこそ、あえて書物を読まなければいけないと思うのです。書物というのは他人が考えていることです。凡庸にして古臭いように聞えますが、他人の声に耳を傾けるという行為こそが、いま必要とされているのではないでしょうか。

・・・・・・では、書物を読むとはいったいどういうことなのでしょうか?

多くの人たちが誤解していると思いますが、仕事や研究のため日本を読むことは読書ではありません。私はこれを「調べる」といっています。決して読んだとはいわない。その理由は簡単です。だって楽しいから。仕事と関係なく純粋に楽しみで読むのが読書の本当のあり方です。

日夏耿之介という大詩人がいます。彼の『黒衣聖母』(1921)という詩集に、書斎を浴室に喩えた詩があって、「儂(わたし)は浴(ゆあ)む・・・・・・神のごとき古書冊ら、崇崇(たかだか)ととり囲み」という、格調高い一説があります。わたしはこれを中学生のときに読んで、ああ、そうか、大人になってもこんなふうに生きていけたらいいなと思いました。勝手気ままに本を手に取り、一日じゅう仕事もしないでいられたら、最高に幸せではないでしょうか。私は大概の書物を寝台で読みます。寝台とは机と違って、そこで生じることに責任をけっして問われることのない家具なのです。

・・・・・・書物の魅力とはなんですか?

本を読まなくてもインターネットがあれば充分という人がよくいます。そういう人たちは書物を情報源としてしか捉えていないのではないでしょうか。インターネット情報の信頼度の問題はさておき、仕事で調べものをするだけなら、それでいいかもしれません。でも書物は情報の束ではないのです。書物というのは何かを伝えようとする意志なのです。何かを他の人に向かって話しかけようとする声が書物なのであって、無機的に情報がずらっと並んでるものではない。そこがインターネットと決定的に違うというところです。何かを人に告げ知らせようという意志、または情熱が書物をつくっているのだと思います。

トリュフォーの『華氏451』というフィルムがありました。原作はレイ・ブラッドベリのSFですが、書物というとわたしはまずこのフィルムを思い出します。書物を持つことを禁じられている未来社会の話ですね。底には地下組織があり、人々は一人一冊の書物を丸暗記している。誰かがある書物を聞きたいといったら、その内容を暗記している人がやってきて暗唱する。「わたしはトルストイの『戦争と平和』です」という人がいたり、「わたしはマルクス・アウレリウスです」という人がいたりするわけです。その人に「第三部の第四章を聞きたい」というとスラスラと話しはじめる。

わたしはこのフィルムに非常に感動しました、「そうか、書物のない世界になってしまったら、人間が書物になるしかないんだ」と、いろんな人たちが次々と声を出し、自分自身を語っている・・・・・・その映像を見て、「書物は声だな」とつくづく思いましたね。情報量のない書物はだめと思いますが、にもかかわらず、書物は情報の束ではないのです。

もうひとつ、読書は体験になりうるということも付け加えておきましょう。
たとえば私の場合、ある場所に行くときに、その場所についての本を集中して読みます。イスラエルに行ったときには旅の前に50冊くらい読みました。そうすると、限られた期間にここに行こうとか、こんなふうに書かれていることを確認してみようとか、あるいはあっちに行ったらこういうことができるだろうというふうに、旅行の枠組みができる。もちろん帰ってきてからも必ず読みます。他の人の記録を読むことで、自分が行ってきた場所についてもう一度考えなおすことができる。つまり、私にとって書物を読むということは、実際にその場所に足を踏み入れることと並行した、対等な行為なのであって、両方が不可欠なのです。

なかには、その場所にまったく先入観を持たずに行って、直接感じたことを書くという人もいるでしょう。岡本太郎のように天才的な直観に恵まれている人ならば、その態度もわからないではありませんが、私のようなタイプはやはりパースぺクティブというか、視点、立ち位置というものを準備する予習が必要なんです。ただそこに行っているだけでは体験になっても、経験として血肉化はなされません。

その逆に、本しか読まない人が少なくないことも事実です。ひたすら誰にも会わず、書物だけ読んで自足している人というのは、誰ともコミュニケーションできない。それが漫画であろうがハーレクインロマンスであろうが、その中に閉じ込められているだけのことです。書物に読まされているといったらいいでしょうか。ニーチェが「わたしは書物しか読まない怠け者を憎む」といっていますが確かにそうだと思います。

・・・・・・本を読まない学生が増えているといわれていますが?

わたしは大学教師としニ十数年間、教壇に立ってきましたが、学生たちがどんどん本を読まなくなってきていると感じます。
本を読んでいないから、いまでは大学生同士でも話が通じない。誰かが「トーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』にこんなことが書いてあって」といっても、「それ、何?」といった調子です。私が学生だったころは『トニオ・クレーゲル』くらいは読んでなければいけないとみんなが思っていました。つまり、みんなが基本的に共有している本とか、音楽とか、映画体験、あるいは演劇でもいいのですが、それがあったんです。ちなみにマンは大学に通ったことのない人でしたが。当時のドイツで誰よりも深い学識を持っていました。

大学だけではなく、一般家庭もそうでした。例えば、私たちの親の世代は、家が狭くてもとりあえずピアノを置き、子供に習わせたものです。モーツァルトになる必要はない。しかし自分たちは戦争があってなかなか音楽が聴けなかったから、せめて子供にはそういうものを体験してほしいと思った。自分にはできなかった夢を子供に託したわけです。私はこういう背伸びをする姿勢、教養に対する憧れが重要だと思うんですね。

フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユは、『善行というものは水を飲むことと違う』といいました。水が飲みたいという気持ちは水そのものではない。水の不在である、でもいいことをしたい、善行をしたいという気持ち自体は、もうそれだけで善なんです。つまりしたいと思っただけでも、それは善になっている。教養というか文化を身につけておきたいと思ったときに、すでにそれは文化をもっている人間の態度なんですね。逆にいえば、文化をもちたいと思わなければ、それは即ち文化がないということになるのだと思います。

背伸びするということ自体が文化なんです。立派なことではないでしょうか。それがいまなくなってしまったので大変なことになったと思っています。

一冊も本がない家で育った子は本に触れる機会が少ない。そしてその子供たちはというと、さらにもっとその機会を失ってしまうでしょう。私たちの次の世代ぐらいから大きなものを失いだすはずです。なんとかしなくてはいけない戦前の旧制高校的な文化、具体的には男性中心主義で西洋崇拝的な教養の再現は不可能だし、第一無意味です。映画研究家としてのわたしは、その自信をもっていえます。しかし共通の基盤となる文化をつくらなくてはいけないとつくづく思います。

・・・・・・人間を豊かにする読書とは?

読み直すに値する本をみつけるということに尽きるのではないでしょうか。読書というのは量の問題ではなくて質の問題なのです。

哲学者の谷川徹三が老境にさしかかって、「自分はいま岩波文庫のヘシオドスを読んでいる。何頁か読んだら一日が過ぎてしまった」といったことを書いたのをまだ中学生の時分に読んで、実にいいなあと思いました。悠々と、もの思いにふけりながら一日数頁しか進まない。しかも年をとって、昔読んだ本を読み直している。お金なんか使わないわけですが、精神的には実に豊かなことだと思います。そういう本がたとえば10冊とか100冊、身近にあれば、どれほどすばらしいでしょう。

どんなに忙しくても、本を読む時間はあるはずです。寝る前の一時間でも、旅の移動の途中でも、「暇になったら読もう」なんて思っていては、きっとその人は一生読まないでしょういますぐにでも後々読み直すことができる本を探してみてください。

私の場合は、それをみつけるために読んでいるといってもいいくらいです。もちろんここに紹介した本は私が読みなおすに値すると思った本ばかりです。

繰り返して言いますが、書物を読むということは現実の体験なのです。体験の代替物ではありません。そしてそれ以上に、体験に枠組みと深さを与え、次なる体験へと導いてくれる何かなのです。かつて中国の賢人は、三日書物を読まないでいると口のなかにイバラが生えるという警句を残しました。わたしはこれは真理だと思います、わたしたちはこの、古臭いように見えてももっとも太古からある情熱に、もう一度身をゆだねてもいい時期に来ているのではないでしょうか。

四方田犬彦 「人間を守るための読書」

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