古井由吉「槿」 夜が更けると

夜が更けると、立居がまた変わってくる。風邪気味で体力が続かなくなったせいか、近頃は十一時よりも前に仕事を切りあげる。それから床に着く前の家の者たちとしばらくつきあって、寝かせたあとにまた一人になるわけだがそのあいだ、一日の労苦のぬけがらの状態のくせにともすれば口調と物腰に、不断の疼きを内にこらえて平静を保っているような沈重の感じがこもり、切なさのあまりひそかに長い息を抜く。刻々と耐えている、風邪気味のだるさのほかは、ことさら何も耐えてやしない。たとえば外で取返しのつかぬ罪を犯して、身の始末を決意した男が家にもどって家の者にはひと言も洩らさず、穏やかな顔つきに頼らせて、残された日常にほんのりひたっている。家の者にはどうにかやさしくしたなと思いながら、心の底の酷さをひんやりと撫ぜている。そんなことを家の者の前で想像して変な快感を覚えたのは、あれももう五年も六年も前のことで、今ではそれどころでない。身辺身中に異変が起っているわけではないが、とにかく、手前が年を取っていくだけで精一杯だ。にもかかわらず。とくに子供たちに物を言いかける時に、親としてけっこう無責任な冗談口もつつしまぬくせに、口調が端々で心ならずも、大切なことをそれとなく中渡す重々しさをふくむのは、これはどうしたことか。あとでかならず思い出せよ、といわんばかりの。苦りきって自分でまぜかえすことになるのだが、子供たちを笑わせる中にも、どこかしら泣き濡れたところがある。


古井由吉 「槿」

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