宗教の事件 08 「オウムと近代国家」より 三島浩司

・・・・・・路地の記憶というか、“闇”がまだありえた時代の記憶をまだ引きずっているというわけですか。でも、麻原はそれを自覚してるのかな。

三島 難しいね。自覚すれば、魔法は消えるかもしれないね。

闇と言えば、元オウムの信者から聞いた話なんやが、実は麻原は日本の中世の南北朝時代の南朝の末裔を探し求めているらしい。

・・・・・・それはまた何というか、わかりやすいというか。
三島 南朝は足利尊氏と対立した後醍醐天皇によって奈良の吉野に開かれた大覚寺統の朝廷で、その皇統は百年ほど続いた後、途絶えた。彼はその南朝の末裔を探していたらしいんだ。現にかなりの調査を行っていたようで、末裔が現在アメリカにいることまで突き止めているようなんだ。麻原の意図が何かはまだわからないのだけど、面白い話だと思う。

後醍醐天皇は、網野善彦さんの『異形の王権』なんかによれば、被差別民などを糾合して天皇親制政権を樹立したわけです。最終的には足利氏によって政権は打倒されたが、日本の天皇のなかではひときわ異彩を放つ存在で、カリスマ性と妖しい人間的魅力を併せ持った天皇だった。日本の天皇制のなかでもきわめて重要な位置を占めていて、現在の天皇制の正当性の根拠は南朝に置かれている。その後醍醐天皇の系譜、つまり末裔になぜ麻原が注目するのか。これは面白い問題だと思うね。南朝の末裔を捜し出してきて何をしようとしたかはわからないが、麻原の頭の中に天皇の問題があったことは間違いないことだと思う。

・・・・・・南朝の末裔をねえ。本当のところは麻原に聞いてみなければわからないことでしょうが、いったいいかなる思考回路から「南朝」という記号が出てくるんですか。

三島 これは私の仮説にすぎないのだけど、オウム事件のひとつの本質は、闇の部分から現在の日本人が復讐されている、ということだと思う。

外国から成田空港に帰り着いたときにいつも感じるのは、「蛍光灯の明かりに隅々まで照らし出されて、日本はもう闇がなくなった」ということなんですよ。昔は都市にも暗闇があったし、ほの暗い路地があった。で、人々にも闇に対する恐怖があった。闇のなかには邪悪なものが潜んでいることがわかっていたからね。そして、その闇は人間の心のなかにもあるということもわかっていた。ところが、蛍光灯の明かりで闇をなくしたことによって、心の中にある闇もわからなくなってしまった、というより、精神の闇、暗い部分を切り捨ててきた。闇は怖いものではあるけれど、もう一面では闇のようなものがなくなれば、人間の生命そのものが活性化しなくなってしまうような気がする。

弁護士の立場を離れ、いささか文学的なことを言わせてもらえば、捨て去った闇に日本人が復讐されているような気がする。それがオウム事件なんだと思うね。麻原が南朝の末裔を探し求めているという話を聞いた時に、そう思った。南朝は、まさしく日本史の最大の闇の部分だからね。

・・・・・・その“闇”というメタファーはともかく、おっしゃりたいことについて僕も基本的に異論はありません。ただそのような解釈を提示すると同時に、例えばその「南朝」という記号を彼がどのような情報環境のどのような文脈で入手し、どのように使い回していったかを同時代的に検証することがとても重要だと思いますね。

麻原が雑誌や本などからそういう情報を入手した時期は、70年代の後半だったわけですよね。当時は雑誌『ムー』なんかのライターたちが南朝の問題などを盛んに言ってまわっていた時期で、そのほかにもいわゆる超能力、縄文・古代史、ユダヤなどに関する情報が氾濫した。最近一部でいわれる「トンデモ本」ですよね。その中で、網野善彦さんや亡くなった隆慶一郎さんらの仕事にまでつながるようなモチーフも大量に脈絡なくばらまかれたんですよ。「ハレ」とか「ケ」とか、あるいは、いま三島さんが期せずして使われた「闇」とか「異界」とか「周縁」とか、民俗学や文化人類学のタームも同様ですが、そういう当時大量に流通していた記号というかモチーフが、麻原の生身の日常のなかに生活史に蓄積されていたフラストレーションなどを説明づけようとしたときに、「南朝」なり陰謀史観なりが、結果としてうまくフィットしたという面もあったんではないですかね。当時の雑誌のそういう情報環境なども一方で押さえておかないと、麻原の世界観は解明できないように思うんですよ。

その時期をくぐってきていることを斟酌できるかどうかで、麻原やオウムの連中の世界観の評価のフェーズが代わってくるような気がします。それらを斟酌する部分が薄いと「麻原はものすごいことを考えているのと違うか」と年配の方などは考えがちですよね。吉本隆明さんなどはその典型だと思う。しかし、僕らの世代に言わせれば、別にあのような世界観というか、現実に対してあのような解釈をし、説明をしてゆく手合いというのには結構なじみがある。当時はそういう麻原的な発想をする連中はいっぱいいた。珍しいものでもなかったんですよ。超能力や日本史の裏面などの話題は、自分のコンプレックスみたいなものを説明するときの当時の道具立てのひとつだったわけです。ただ、その道具をあそこまで肥大させた麻原というのは、その部分でたしかにすごいとは思いますけどね。

三島 なるほど、そういう文脈もあるでしょうな。そういう意味では、大月さんの説が正しいのかもしれないね。

まあ、それはともかくとして、岐部信者らの話を聞いていると、私がオウム事件に関して抱いていた印象を裏づける部分もあるんですよ。その印象とは、オウム教団も日本のなかの日本的な組織なんではないか、ということなんですよ。つまり、シンポジウムで入った日本人の「空気による決定」。サリンの散布それ自身は空気による決定の結果ではないとしても、それに至る過程は空気によってなされたものだったのではないか。オウムも日本社会だったのではないか、ということなんですよ。

・・・・・・要するに、意思決定に際して上から下へ超越的に決定が下るという性格のものではなかった、と。ムードによる意思決定であって、麻原でさえ「わしがやらした」とは思ってない。なんとなくああいうことになってしまった、と。

三島 そうそう。なんとなく醸し出された。主体のない空気があって、それにみんなが乗っていってしまった、ようにも思う。

・・・・・・祭りの時に神輿が暴れ込むようなものですね。誰がいうたわけではないのに、気にいらん奴の家に神輿を暴れ込まして、家を無茶苦茶にぶち壊してしまう、あれですね。その意味では、まさに日本的な意思決定であるわけだ。

三島 そう。ただ、われわれの法のレベルでは西欧的文脈で考える。供述調書の自白なんかでも、西欧的人間観・社会観の視点から記述されている。ところが、実態は全然違う場合が、私の弁護士経験から言っても、意外に多いんですよ。日本的決定方式によるものであって、西欧的な明確な型になってないというのがね。

(つづく)


「オウムと近代国家」(南風社)

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