宗教の事件 46 吉本隆明「超20世紀論」

●毛沢東に比べれば、麻原の怪物性は小粒である

・・・・・・中沢新一は麻原彰晃と対談したこともあります。そのときの麻原に対する印象を踏まえて、中沢新一は浅田彰との対談の中で、「報道で麻原の俗物的部分が誇大に流されているけど、麻原を甘く見てはいけない。本当に悪魔的な男だ。麻原は心の中に深い闇と、とてつもない妄想を抱えている。あんな男は、おそらく戦後初めて現れたのではないか」と述べています。

吉本 それは妥当な見方だと思います。僕はずっと、「麻原をちゃんと宗教家として評価しなければいけない」といってきましたが、それは、いろんなニュアンスを削ぎ落としていっているわけです。
悪魔的というか、怪物的というか、比較するとしたら毛沢東ですね。でも、毛沢東と比べると、麻原ははるかに小さな怪物です。毛沢東の主治医が書いた『毛沢東の私生活』という本を読むと、毛沢東ってやつは、ものすごい怪物だったということがわかります。

毛沢東は、普段、何もせず、寝そべって本ばかり読んでいるんです。読んでいるのは中国の古典です。そして夜は、女の子がかわりばんこにやってきて、毛沢東の相手を務めるわけです。

日本人はとにかく潔癖好きですから、日本人的な感覚からすれば、毛沢東は単なる“女ったらし”ということになるのかもしれませんが、そんな域はとっくに通り越してしまっていて、もう怪物というより仕方ないぜ、というところまでいってしまっているんです。

そしてまた、毛沢東には、やはり思想家としての面があります。たとえば、反乱を起こそうとした林彪(りんぴょう)が、その動きを察知されて、逃げようとしていると聞かされても、毛沢東自身は「逃げたいやつは、逃がしてやればいい」と、いたって寛容なことをいっているんです。飛行機で逃げた林彪は、結局、撃ち落とされましたが、あれは毛沢東の意志じゃないんですよ。そういうところは、やっぱり、毛沢東というのは思想家だなと思いますね。

・・・・・・麻原は思想家としてはどうですか?

吉本 麻原は中沢新一やビートたけしと対談しても、けっして見劣りはしないですが、テレビなどでは、学生運動家に毛が生えたようなつまらないこともいっていましたね。

麻原の著書を読む限り、麻原がヨーガに収斂や原始仏教、チベット仏教の経典に通じていることは確かですが、思想家として自分のオリジナリティを発揮しているかというと、そこまではいっていないように思います。

ただ、身体的な修練に加え、信者をこれだけ集めたことなど見ても、かなりの怪物だとはいえます。


●麻原を単なる犯罪者扱いする浅田彰の“宗教音痴”

・・・・・・麻原は「自分は最終解脱者である」と公言していました。でも、中沢新一によれば、仏教でいう解脱とは、人生を無限に開かれたプロジェクトとして生きていくことであり、どこかにたどり着いたら、それで終わりということはない。
「最終解脱」といういい方は、仏教用語としてもおかしい、そんなことはありえない、といって中沢新一は麻原を批判していましたが?

吉本 それは中沢新一らしい批判ですね。僕は、ある宗教学者に「麻原は、このくらい高い修行をやったのはチベットのダライ・ラマと自分だけだと著書で書いているけど、どう思いますか?」って聞いたことがあるんです。

そしたら、その宗教学者は、「ダライ・ラマは制度的な統括者であるけれども、修行者としては、そんなに高くない。修行者として一番高いのは、道端のお堂なんかにこもって、物乞いのようなかっこうをして座っているような人たちなのだ」と答えました。

それともう一つ、その宗教学者はこうもいいました。「麻原は自分は修行を全部したようなことをいっているけれど、頭のてっぺんに精神を集中してイメージを出すという修行はやってないんじゃないか。やったのは、額のあたりまでの精神集中じゃないか」と。

鑑真をはじめとする、昔の高僧の木彫りの彫刻などを見ればわかりますが、鎌倉時代とかの高層の肖像っていうのは、たいてい頭のてっぺんが膨らんでいます。なぜかが知りませんが、頭のてっぺんに精神を集中してイメージを出すという修行を俺はやったんだ、ということをいいたかったのかもしれません。

麻原が「自分は最終解脱者だ」と公言していたのは、その頭のてっぺんまで精神を集中してイメージを出すという修行を俺はやったんだ、ということをいいたかったのかもしれません。

・・・・・・浅田彰は中沢新一との対談の中で、「自分は『宗教は民衆の阿片である』というマルクスの言葉を依然と信じている野蛮な唯物論者」だと語りつつ、「社会問題としてはともかく、宗教問題としてはオウム真理教の事件なんて、そんなに深刻な事件なのかという気がする」「麻原は単なる犯罪者だし、彼に対して一片のシンパシーも持たない」とも語っています。

吉本 浅田彰は“宗教音痴”といえば、最初から“宗教音痴”ですが、そういう考え方をするのは、ソフト・スターリン主義者の特徴ですね。つまり、唯物主義者であり、構造改革主義者である、その特徴がよく表れたいい方です。

イタリアの共産党が勢いが盛んだった時、その理論的支柱だった人物がグラムシですが、浅田彰がいっていることは、いかにもグラムシ主義者がいいそうな言いぐさであります。

グラムシ主義者というのは、資本主義を少しずつ改革していけば社会主義にいき着くと言う間違った考え方の持ち主です。グラムシ主義をもっとソフトにしていくと、フランスの構造主義になり、日本の構造改革主義や市民主義になります。マルクス主義から「社会はこうあるべきだ」というイデオロギーを抜いたものが構造主義なんです。

でも、今の高度資本主義が社会主義に行き着くはずはないですよ。資本主義を少しずつ改革していけば社会主義にいき着くというのは、まったく間違った考え方です。ロシアの共産党が政権から滑り落ちた時点で、それは、もう終わってしまった理念なんです。

それに唯物主義というものも、本当はマルクスの思想ではありません。それは、ロシア・マルクス主義が流行らせた思想であってね。浅田彰とか柄谷行人、あるいはそのシンパである蓮実重彦とかは、一度もロシア・マルクス主義から脱したことはないんです。

唯物主義者というのは、例えば歴史考証をする際など、土器に縄目があるかないか、土器をつくる際に縄を使ったかどうかということで、縄文時代と弥生時代を区別するわけです。でも、それはとんでもない話で、縄文時代と弥生時代の本質的な区別にはなっていません。

じゃあ、なんでもって時代を区別すべきかといったら、“制度としての生産状態”で区別しなければいけないというのが、マルクスの考え方です。なぜ、土器に縄目が付いているのか?それはアニミズム的な宗教が社会制度の中心に置かれている社会においては、土器を生産するにあたっても、宗教性が付加され、縄目を付けることによって、そこに宗教的意味合いを込めていたからである、ということを考えなければ、お話にならないわけです。


(つづく)


吉本隆明 「超20世紀論」

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