小出裕章 鉱毒事件から原発事故まで③

●終わっていない鉱毒問題

その後も、足尾銅山は政府の庇護の下、稼働を続けた。採掘できる鉱石の品位がどんどん低下し、自分の鉱山からの産銅量は低下し、一時は命脈をたたれる寸前となった。しかし、戦後の朝鮮特需で息を吹き返し、その後の高度成長の波に乗って、国内の他の鉱山からの鉱石を運び込み、さらには外国からの鉱石を運び込んで稼働を続けた。そして1970年にはベトナム特需で年間36万トンを超える銅を生産して最盛期を迎えた。

その足尾銅山も今では完全に閉鎖となったが、鉱毒はその後も堆積場に野ざらしになって放置されたままとなり、福島第一原発事故が起きた東日本大震災の時には、源五郎沢堆積場が決壊し、鉱毒が流出した。今後も長い年月に亘って、堆積場の崩壊によっていずれまた渡良瀬川の汚染が起きるであろう。

●日本でもついに起きた原子力発電所の過酷事故

米国の原爆製造計画・マンハッタン計画で、原爆材料にするプルトニウムを製造するために人類ははじめての原子炉を1942年に動かし始めた。すでにそれから70年を超える歳月が流れたが、原子炉を巡る様々な事故も起きてきた。

原子炉が熔け、大量の放射性物質を環境に放出した事故は過去に四回起きた。初めの過酷事故は1957年に英国ウィンズケールのプルトニウム生産炉で起きた。その事故では、およそ2万キュリー(740テラベクレル)のヨウ素131が大気中にひろがり、牛乳の廃棄などが行われた。次の事故は1979年3月に米国スリーマイル島原子力発電所で起きた。日本の原子力発電所は最初の一基(東海原子力発電所)は英国から導入されたが、それ以外はすべて米国から導入されたもので、加圧水型原子炉と沸騰水型原子炉がほぼ半数ずつを占めている。スリーマイル島原発はこのうち加圧水型原子炉を採用していたものであった。次の事故は、1986年4月に旧ソ連チェルノブイリ原子力発電所で起きた。この炉はソ連が独自に開発してきた大容量黒鉛減速チャンネル型炉(RBMK)であった。放出された放射能は、ウィンズケールやスリーマイル島での事故に比べてはるかに多く、人類史上最悪の記録を更新した。それでも日本は、日本の原子力技術は優秀で、日本の原子力発電所では絶対に事故は起きないと言い続け、チェルノブイリ事故以降さらに25基もの原子力発電初を作り続けた。そしてついに、2011年3月11日、日本の福島第一原子力発電所の事故が起きた。その事故では、事故当日運転中だった1号機から3号機までの三つの原子炉が熔け落ち、定期検査中だった四号機でも爆発が起きた。福島原子力発電所の原子炉は沸騰水型原子炉で、かくして、世界で使われてきた英国型、ロシア型、そして米国型の二種類の原子炉のすべてで過酷事故を経験することになった。

●いついかなる時も冷却が必要な原子炉

2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震は起きた。マグニチュード9.0、広島原爆が放出したエネルギーに換算して3万発分という巨大地震だった。それによって津波も発生し、東北地方の太平洋岸の街や村は壊滅的な被害を受けた。しかし、さらに悪かったことには、その地震と津波によって福島第一原子力発電所の一号機から四号機までが全所停電(ブラックアウト)の状態に陥った。原子炉という機械は、核分裂の連鎖反応を起こす機械であり、原子力発電は、その熱で水を沸騰させ、発生した蒸気でタービンを回して発電する蒸気機関である。しかし、原子炉の炉心には大量の核分裂生成物が蓄積して、それ自体が熱を出す。そのため、仮に核分裂の連鎖反応を止めたとしても、すでに蓄積している核分裂生成物が発熱するため、いつ如何なるときでも冷却しなければ、溶けてしまう。原子炉を冷却するためにはポンプが動かなければならない。ポンプを動かすためには電気が必要である。その電気が断たれてしまった。ごく短時間であれば、非常用に工夫された装置で冷却ができるため、日本の安全審査では30分以上の「ブラックアウト」は生じないとして「安全性が確認」されてきた。しかし、このときの「ブラックアウト」は数日たっても解消されず、事故時に運転中だった一号機から三号機は炉心が熔け落ちるメルトダウンに至った。

●敷地内で続く奮闘

こんな事故を誰だって望まない。私だって望まなかったし、原子力を進めてきた人たちだって望まなかったに違いない。しかし、機械に事故はつきものであり、破局的な事故は起きる前に私は原子力を廃絶したかった。原子力を推進している人たちは、まさかこんな事故は起きないだろうと高をくくっていた。今回の事故を引き起こした直接的な責任は、もちろん東京電力にある。しかし、もともと福島第一原子力発電所は米国GE社から導入されたもので、日本での下請けとなった東芝も日立も原子力発電所についての知識を持たないままだった。ましてや東京電力は、自分の発電所について、それがどれほど地震や津波に弱いか知らなかった。そして、事故への備えを怠った。

原子力発電所の事故の場合、放射能が存在するため、事故が起きた現場に人が近づくことができない。その上、こんな事故を予想もしなかったため、人間に代わって情報を集めるための測定器の配置もなかった。平常運転時の状態を知るために設置されていた計器類も事故による過酷な環境の中で次々に壊れていった。結局、二年以上たった現在ですら熔け落ちた炉心がどこにあるか正確に分からない。そのため、ただひたすら水を注入して、炉心のさらなる破壊を防ぐ作業を続けている。それによって汚染水は次々と増加し、今や敷地内に保管する場所すらなくなってきている。遠からず海に放出することになるとわたしは思う。

そして、事故に対処する作業はすべて猛烈な被爆環境の下、10次に及ぶといわれる下請け・孫請けの雇用関係の中で、被爆についての知識を持たない労働者が負わされている。

また、1号機から4号機の使用済み燃料のプールの中には大量の使用済み燃料が残ったままで、その冷却も続けなければならないし、少しでも早く、少しでも危険が少ない場所に移動させなければならない。とくに事故時に定期検査中だった4号機では、炉心にあった燃料もすべてが使用済み燃料プールが存在していた階の壁すらが吹き飛ぶ損傷を受けた。炉心2.5個分の使用済み燃料を含んだ使用済み燃料プールは宙吊りとなって、今現在も崩壊の危機にある。そこには、広島原爆1万発分を下回らないセシウム137が存在している。

●福島第一原発事故による周辺の汚染

溶け落ちた1号機から3号機までの炉心からは、希ガス、ヨウ素、セシウムなどが大気中に大量に放出された。日本政府の公表地に従えば、これまでに大気中に放出されたセシウム137の量は1万3千テラベクレル、広島原爆166発分に相当する。日本政府は福島原発に対して安全のお墨付きを与えた本人であり、重大な責任があるし、むしろ犯罪者とでもいうべき組織である。犯罪者が自らの罪を重く申告するはずはない。広島原爆411発分に相当する3万6600テラベクレルのセシウム137が大気中に放出されたとの報告もある。また、おそらくはそれと同程度の量が海へも放出され、今でも放出され続けている。

大気中に放出された放射性物質は風に乗って流れる。日本は北半球温帯に属し、その地域では偏西風が卓越風である。そのため、福島原発から大気中に放出された放射性物質の大部分は、太平洋に向かって流れた。一部、風向きが東方向でないときに限って、放射性物質は東北地方、関東地方を中心に大地に降り積もった。特に、北西方向に風が向かった時には周辺で雨と雪が積もったため、およそ50~60キロメートル先までが、1平方メートルあたり60万ベクレルを越える濃密な汚染を受けた。そこには、飯舘村があり、これまで原子力発電所からは何の恩恵も受けず、自分たちの村は自分たちでつくるとして苦闘してきた村である。そして「日本一美しい山村」と自他ともに認める村を作っていたが、今や全村離村となってしまった。

(つづく)


『世界』2013年7月 小出裕章「滔々と流れる歴史と抵抗 田中正造没後100年に寄せて」

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