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ルドルフ・コンプレックス ゼンティス編(17)

第2章 3つめのスケッチ

チューリッヒ ベルビュー

「以前はそれほどでもなかったけど、今じゃ予約を取るのもたいへんなの」
 湖からほど近いレストランは昼時ということもあり、かなり混雑していた。この季節はさすがに観光客は少ないが、それでも人気の店らしく続々と人が入ってくる。
「やっぱり野菜のメゼにしようかな」
「あたしも。ヒツジのケバブ付きで」
 エミリアに頼み込んでステラ・ ユンのインタビューをお膳立てしてもらったヴァーツラフは、指定されたレストランにたどり着いて紹介もそこそこにメニューを渡されたが、聞いたこともないような料理ばかりで途方に暮れていた。
「じゃあ僕も同じものを」
「あたしレバノン料理大好き」
「やっぱり野菜たくさんなのがいいよね」
「デザートもおいしいし」
「そうなの?」
「え、」
 二人は同時にヴァーツラフの顔を見た。
「もしかして…」
「初めて?」
「え?そうだけど」
「あんた30年も人間やってて何やってんのよ」
「プラハにもレバノンレストランくらいあるよね」
「ちょっと待って。レバノン料理食べたことないくらいでダメ人間認定されるわけ?」
 二人は同時に口を開いた。
「そうよ」
「あたりまえでしょ」
 世界一物価が高いと言われるこの街で、味の良さと手頃な価格のためランチタイムは常に満席で、活気にあふれた店内では多少大声を出してもまったく目立たなかった。
「今日はお時間をとっていただいてありがとうございます」
 ヴァーツラフが改まってお礼を言うとエミリアが代わりに答えた。
「そうよ。ステラはこのあとリハーサルがあるんだから」
「ああ、オペラの」
「よかったら、あとで見学しませんか?」
「え、いいんですか」
「リハーサルだから全曲じゃないけど」
「迷惑じゃない?ステラ」
「全然。せっかくここまで来たんだから。オペラハウスはここからすぐなの」
「じゃあお言葉に甘えようか、ヴァシェク」
「今日中にウィーンに戻らなきゃならないんです。途中で抜け出してもよければ」
「大丈夫ですよ」

 皿が下げられ、デザートが運ばれてから、ヴァーツラフは本題に入った。ステラはエミリアが一緒にいるせいかリラックスし、とても協力的だ。
「父に会ったんですよね」
「ええ先日。おかげで進展がありました」
「あれは代々我が家に受け継がれてきたんです。よく知らないけど、とても古い物だと聞いてます」
 昼食時を過ぎると店内は波が引くように閑散として、残っている客は二、三組になっていた。ヴァーツラフは自分たちの声が妙に大きく響くのが気になったのか不自然なほど小声で話している。
「ステラ、あなた持ってるんでしょ」
 エミリアが単刀直入に聞いた。バクラワをおっかなびっくり口に入れていたヴァーツラフは目を白黒させた。
「それが、今は手もとにないの」ステラはちょっと目を伏せた。エミリアとヴァーツラフは顔を見合わせる。
「ミリィ、あなたも知ってると思うけど、妹のパトリツィア、いるでしょ。あの子に貸したのよ。そしたら失くしちゃって」
「え、トリシャが」
「そうなの。去年ゼンティス山に登った時に失くしたって」
「なんで登山するのにそんなもの持ってったのよ」
「曾祖母のこと、知ってるでしょ。弔いだって、わざわざ持ってったのよ」
「そうだったんだ。あの、トリシャはそのこと気にしてたの?」
「あたしもあの子がそんなこと言い出したんでびっくりしたのよ。それまで一度も話題にしたことなかったから」
「そっかあ、やっぱりどっかで意識してたんだね」
「かもね。でもゼンティスなんて麓からロープウェイで行けるじゃない?それをあの子ったら自分の脚で登るって。そうじゃないと弔いにならないって言って。あの子、歳が離れてるせいか、いつまでも子供みたいで」
「可愛いじゃない」
「そお?それに飽きっぽいのよ。こないだまでメタルにはまって拳振り上げてたのに、今は仏教美術だって」
「わお、それって尹さんの影響?」
「違う違う。彼はそもそも美術方面、全然興味ないし」
 ヴァーツラフはさすがにこの辺で軌道修正をはかる必要を感じたらしい。「あの、妹さんはよく登山を?」
「ああ、そっちよね。それが笑っちゃうんだけど、全然なの」
「え、」
「でしょう。だからその時あたしも止めたのよ。危ないからって」
「それって去年のいつぐらいの話?」
「ええと十月かな、くわしくは知らないの」
「もう雪が降り出す時期だよ」
「そうなの。上の方は氷河とか絶壁とかあるでしょう」
「その時失くされたんですか」
「滑落したんですって」
「ええ、ヤバいじゃないですか」
「そうよ、本当に。でもせいぜい10メートルくらいだったし、怪我もすり傷程度で済んだから大丈夫だって言ってたけれど」
「ステラ、それは本当に運がよかったんだよ。一歩間違ったら大変なことになってた」
 エミリアはいやに真剣な顔をしているが、ステラは気に留めない様子で話を続けている。
「でも抜けてるのよ、失くしたのに気がついたのは山頂に着いてからですって」
「それはしょうがないですよ、大変な目にあったんですから。で、妹さんが滑落したのはゼンティスのどのあたりかわかりますか」
「ええと、北側の中腹あたりって言ってたかな。詳しくは知らないけど」
「わかりました」
「わかりましたって、ヴァシェク、あんたまさか探しに行くんじゃないでしょうね?」エミリアが目をむいた。
「そうなんですか?」
「え、まだわからないけど、最悪それもありうるかなと」
「なにお気楽なこと言ってんのよ。あんたみたいなひ弱な奴にできるわけないじゃない」
「僕もそうならないことを願うよ。登山は苦手だし」
 ヴァーツラフは力なく笑ってエミリアを見たが、彼女はあきれて横を向いてしまった。
「あのね」ステラが口を開いた。「言っておいたほうがいいと思うんだけど」
「なに?」
「実はこの話しを聞きに来たのはあなた達が初めてじゃないの」
「うそっ」
「どういうことですか」二人は同時にステラを見た。
「隠すつもりはなかったんだけど、年末にね、」
「いったい誰が」
「フォスと名乗ってたけど、どうせ本名じゃないだろうし」
「なんであのペンダントのこと知ってるのよ。関係者以外知るはずないのに」
「よく知ってた。あなた達と同じくらいに」
「どこで嗅ぎつけたんだろう」
「知り合いの評論家からの紹介だっていうから会ったんだけど、後でその評論家に話したら。そんな人知らないって」
「なにそれ」
「あたし、まずいことしちゃったかな」
「それは…」
「そんなことない。ステラ、あんたは全然悪くないって。悪いのはその男だよ」
「そうだよね。でもなんかゴメンね」
「だから謝る必要なんてないよ。大丈夫だから」
「その、そうですよ。本当に全然」
「でもまさかねえ、そいつはなんの目的で」
「代々伝わる宝飾品、みたいな企画の参考にしたいからって言ってたけど、どうせでまかせね」
「ヴァシェク、それってもしかして?」エミリアはヴァーツラフを振り向いた。
「え?」
「あいつなんじゃないの、あの時の館長」
「ええっ、カチンスキ?」
「そうよ、あの慇懃無礼な詐欺師」
「なになに?なんなの?」
「去年、ワルシャワでさあ、妙なことがあったんだ」
 エミリアはワルシャワ美術館での出来事を手短かに語って聞かせた。
「ふーん、なんだか怪しいわね」
「でしょう」
「そのフォスっていう奴はね、白髪混じりの60歳くらいの男でね、足が悪いみたいで杖ついてたんだよ」
「そっかあ、ちょっと違うね」
「あの、背が高いとか太ってたとかは」
「えー、中肉中背ってカンジ?」
「うーん。なんかわからないですね、決め手に欠けるっていうか」
「確かに慇懃無礼っていうか、そんなカンジはあったけど。あとはそうねえ、子供とか世間知らずの公務員とかだったらだまされそうな、キラキラした愛想笑いとか…」
 エミリアとヴァーツラフは顔を見合わせた。
「それだ!」
「まさしく」
「え、なに?」驚いたステラは二人を交互に見た。
「その愛想笑いだってば。それが決めてよ」
「そうなの?」
「ええ、間違いなさそうです」
「髪の毛や老けメイクや脚が悪い真似くらいどうってことないでしょ」
「その通り」
「じゃ、あのフォスが…」
「カチンスキよ」
「ええ!」
 すでに店内には彼らだけしか残っておらず、ウエイターたちは隅に固まって退屈そうにおしゃべりしている。
「でもどうやって知ったんだろう。他にもいろいろ知ってそうだし」
「どこかでハッキングでもしてるのかな」
「盗聴されてたりして」
「やめてよ」
 背後でウエイターが咳払いした。閉店時間らしい。
「気味が悪いわ」
 ステラはちょっと身震いしたが、エミリアは意外なことを言い出した。
「でも、そうなってくると、トリシャが失くしてくれてよかったのかも」
「ミリィ、なに言ってんの」
「だって、もしあのペンダントが手元にあったら、あいつに奪われてたかもしれないでしょ」
「それはちょっとステラに失礼じゃないかな」
「詐欺師っていうのは想像以上に巧妙なんだよ。あたし達だって騙されたじゃない」
「それはそうだけど…」
「多少変だと思われても、その時さえしのげればいいのよ、あいつらは」
「確かにあの時違和感は感じたけど、まさかだまし取ろうって意図があるとまでは考えなかった」
 ステラは眉間にしわを寄せている。ヴァーツラフはなんだか彼女が気の毒になってきた。
「そもそもなんで妹さんは、急にゼンティスに行こうと思ったんでしょう」
「ほんとだったらトリシャに聞いてもらうのが一番なんだけど、あの子、京都の大学に留学中で」
「キヨト?日本の?」
「そうなの。仏教美術を専攻してて、いま京都で仏像彫刻を学んでるの」
「へえ、すごいな」
「イースターには戻ってくるけど」
「ねえ、SNSで聞いてもらえないかな」
「え?ワッツアップはやってるけど、いま?」
 ついにウエイターたちが椅子をテーブルに上げ始めた。閉店時間を過ぎているらしい。彼らは慌てて立ち上がった。
「もちろん後でいいんだけど」
「すいません。図々しいお願いで。でも僕らは遅れをとってるんです。その、フォスに」
「わかった、話します。あたしだって少しは責任感じてるし。で、トリシャに何を聞いたらいい?」
「具体的にどのへんで滑落したのか」
「そうね、それよね」

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