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モノの価値とは〜陶芸家 谷本洋さんのアトリエにお邪魔して

 年が明けてすぐ、谷本洋さんのお宅にお邪魔した。洋さんは伊賀焼の陶芸家で、二年前にロンドンで出会ってから仲良くさせてもらっている。

 三重県の街の外れ、田んぼの畦道を抜けた先に、芸術家の家はあった。着いてすぐに、アトリエを見学させてもらった。そこには大きな窯がいくつもあって、思っていたより大きな施設だった。
 大きな窯の前で、「焚き始めたら四日間寝ずに番をするんです」と聞かされて驚いた。お弟子さんも一緒に、六時間交代で、最後の二十四時間は洋さんが自ら番をするのだと。今の時代、火加減なんかコンピューターの窯みたいなモノがあればなんとでもなりそうなものを、伝統に則って仕事をしている。面倒臭いことをわざわざ選んでいる。僕が最近始めた油絵も、絵の具が乾くまでに何日もかかる面倒臭いものだ。しかし、アクリルには出し得ない質感が油絵にはある。

 まぁ、アクリルで描いたことないから知らんけど。

 陶芸の体験をさせてもらった。なんでもいいと言うので、湯呑みにチャレンジした。洋さんが少し手本を見せてくれて、それに習って粘土を捏ねた。比較的、形にはなったと思う。しかし、思うようにはならなかった。いや、正確に言うと、具体的なイメージを浮かべられなかったので、思うようにもなにも無かった。ただ、湯呑みらしきモノができた。
 イメージと技術はどちらも繋がっている。こんなものを作りたいという“イメージ”と、それを体現する“技術”、そのどちらが欠けてもオリジナルにはならない。イメージがないと何も始まらないけれど、しかしどういった技術を使って作り上げていくのかを知らないと、そもそも作りたいモノのディテールがイメージできない。だから僕はイメージできず、ただ捏ねて湯呑みたいなものを作ってしまった。そういえば二十歳の頃に初めて曲を作ったときもこんな感覚だった。なんとなく、できた。

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 粘土を捏ねながら迷ったことがある。手で捏ね上げた凹凸を、どこまで平らにするか、という問題。平らにしようと思えば、糸や革を使っていくらでもツルツルにできる。しかし、手で捏ねた良さが消えてしまう。だからといってあまりにデコボコでも、それが美しいかどうか。偶然性をどこまでよしとするか

 ここで話の道筋を狭くする。ロンドンでクマ原田と仕事をしてからというもの、僕は少しこの偶然性を頼りにし過ぎてきた気がする。クマ原田とロンドナーたちの自由な生き方に触れて、肩の力が抜けて生きやすくなった反面、なんでもオッケーになってしまった。
 例えば、プロデューサーとしてボーカルの録音をしている時。ボーカリストの声が明らかにひっくり返ったとしても、「普段出ない声が出たね。ええやん」。ミュージシャンがミスしたとしても、「音が濁って譜面通りじゃなくてええやん」となる。音楽に間違いはない。つまり、なんでも“ええやん”となる。
 人はそれぞれだ、というのが僕の考え方だ。どんな生き方をしようが、どんな音楽を作ろうが、人の勝手。しかしその思考はともすれば、“良いモノの基準”を失ってしまうことにもなる。どんなポップスターにも、芸術家にも、その“基準”がないと先に進めない。
 これは少し極端な話かもしれない。僕も若い頃は揺るぎない基準に従って生きてきた。しかし、多様な価値観、生き方に触れることで、「ええやん」を連発するようになったのだ。

 美の基準はそれこそ人それぞれだ。どんなものを美しいと思おうが、人の勝手である。人を傷つけることでなければ、間違いなんてない。しかし、それらが人間が培ってきた文化の中での営みであることは確かである。その文化の中で、基準を作ってくれる要素があるとすれば、それは“伝統”ではないか。
 先人たちが積み上げてきた美の基準を受け継いで、それを現代にも通じるように表現するのが芸術という分野なのではないだろうか。谷本洋さんの陶器は、まさに伝統的な土台にグローバルで現代的なエッセンスが積み上げられている。実際に見れば、手に取れば、そして洋さんと少し話をすれば、それは分かる。“それっぽいなにか”ではなくて、説得力がある。積み上げてきた重みがある。思考が煮詰められている。作品は人間力だと思う。

 そうなると、伝統や基礎を知らない作り手が言うかもしれない。
「それを芸術というならば、別に俺は芸術をやっているつもりはないし、どんなものを作ろうとそれは俺の自由だ。お前の言う芸術と、俺がやっていることと、どっちが優れているかはお前が決めることじゃない」と。
 一度“ええやん”の世界に入ってしまうと、こういうループに陥ってしまう。これは全て、クマ原田のせいである。クマ原田がどんな素晴らしい人間かは、以前に書いた記事をご覧ください。

 僕は“なんとなく”、湯呑みを作ってしまった。「こういう湯呑みが作りたい!」というハッキリとしたビジョンもないまま。側面の凹凸も、「まぁこんな感じか」ぐらいのもので収めた。
 しかし言い換えると、“自分がない状態が形になった”とも言える。自分がない状態で作品を作るなんて、陶芸を学んでいった先には経験できないことかもしれない。今しか作れない作品なのかもしれない。だからきっとこれも、ええやん

 ほら、こうなる。

 谷本洋さんの作品にぜひ触れてください。モノの価値がそこにあります。

谷本洋HPはこちら


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