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大学院生は「あなたの研究は社会の役に立つか?」に答える必要がない

佐藤大朗(ひろお)です。早稲田の大学院生(三国志の研究)です。20年弱続けた会社員生活を辞めて、アラフォーの無職、大学院生です。

博士課程1年生の学生として、「研究」とは何か?「研究」とは何をすることなのか?について情報を集めたり、考えたりしております。

角川新書の『基礎研究者 真理を探究する生き方』を読みました。
「役に立つ/立たない」を乗り越える、未知の法則を見出す思考法。ノーベル賞受賞者と稀代の細胞生物学者が、先が見えない研究の醍醐味を語りつくす、……というオビが付いています。

本の内容は多岐にわたりますが、日本の研究に対する現状認識は、地獄のような話しかなかった。あまり楽しい本ではなかった。

現代日本の大学院生は二極化している。
片方にいるのは、実家が裕福で(親ガチャに成功して)、経済資本・文化資本に恵まれ、独自の関心に基づいて、世界に羽ばたいて研究をする極めて少数の優秀な若者。東京大学を蹴って、ハーバード、イェール、マサチューセッツに行く。
それ以外の多数は、それどころではない。実家が裕福ではないので、目先のお金や就職事情にしか目が向かず、研究テーマの設定を教員に頼り、短期的に「役に立つ」成果が出やすそうな、成果が認められやすそうな小粒の研究しかできない。(理系の場合は)就職に有利そうなので修士課程に来るけれど、気もそぞろで就職活動だけを見据えて、博士課程には来ない。

ぼくが補えば、文系の場合、修士課程にきても就職に有利にならないが、必ずしも致命傷とはならないので、物好きやモラトリアム志願者が来ることが容認されます。博士課程にくることは社会的な死を意味します。

本のなかで憂われているのは、もちろん後者です。実家がそれほど裕福ではなく、金銭的な心配がある大多数の学生が「役に立つ」研究に殺到するけれども、表面的なスローガンに反し、日本の研究が世界的に「役に立つ」成果を出しているわけではない。コロナ禍のときの発信や報道、ワクチン開発においても、すべて後れを取ったじゃないか、という話でした。
企業も、基礎研究、中央研究所のような機関を軒並み閉鎖して、目先の「役に立つ」を追及した結果、狙いとは反対に競争力を失っていると。

だったらどうするか

ぼくが思うに、大学院生(修士課程、博士課程の学生)は、自分の研究が社会にどのように役に立つか?なんて、考えなくていいです。

功成り名遂げたノーベル賞受賞者と同じ結論ですが、理由が違います。
ぼくがこのように思うとき、「未知の法則」を発見し「研究の醍醐味」を味わい尽くし、国家の存在感を拡大し、企業の国際競争力を付けよう、みたいな大層な理由はありません。
もっと大学院生の主観や実情に即した理由から、大学院生が、「自分の研究が社会にどのように役に立つか?」なんて考えなくてよい、と提唱したい。なぜか。

研究が「役に立つ」には、二段階があるはずです。

第一段階

自分の研究が、自分の属する研究分野(他の研究者、同じ分野の学会メンバー)のなかで役に立つ。他の研究者に新しい知見をもたらす。

第二段階

自分が属する研究分野が、社会のなかで役に立つ。利益をもたらしたり、公共の福祉を厚くしたりする。

この二段階を必ず踏まないと、社会の「役に立つ」のはムリです。

第一段階をすっ飛ばして、「自分の研究分野のなかでは役立たずだが、社会に対してインパクトを与える」は、勘違いか思い上がり、もしくは趣味的な愛好家です。
とくに文系の場合、社会に対する提言、社会運動や政治活動をすることは自由ですけど、それは「研究」ではない。研究内容をyoutubeで発信することに対して、ちゃんとした(?)研究者はすごく慎重です。

第二段階でつまずきがあり、「自分が属する研究分野そのものが、社会に役に立たない」ならば、そのなかでどれだけ貢献しても、研究を通じて社会の役に立つのはムリです。ただの大学院生が、研究分野全体の課題をたった1人で引き受ける必要はない。
もしも研究分野そのものが社会と断絶し、どれだけ逆立ちしても社会のなかで存在理由を見出せず、それでも自分が研究を通じて社会の役に立ちたかったら、テーマや分野を変えるしかないんです、大学院生のレベルでは。それでいいじゃないですか。

博士課程の大学院生に、日本学術振興会が特別研究員として生活費・研究費を支給する仕組みがあります。
申請用紙のなかで、「あなたの研究は社会(国家)に対してどのように役に立ちますか」が問われます。みんな、首をかしげながら書くんですけど、率直にいってムリです。苛酷です。
第一段階(研究分野のなかで「役に立つ」)すら達成されていないのに、同時に第二段階(国家や社会に向けて「役に立つ」)を求めても、学生は混乱するだけです。悪い質問、ミスリードだと思います。幼児に「将来の夢」を聞きたがる興味本位で無責任な大人の問いと似ています。「スエは博士か大臣か」という空言にも似ています。
日本学術振興会の組織内論理、アリバイづくりは重々理解しますが。

大学院生は、第一段階「研究分野のなかで役に立つ」にとりあえずは専心したらよいはずです。ひとつの業界に新参者として加入し、業界の独自ルール、知識とノウハウを身につけることは、とても大変ですよ。

第一段階ですら覚束ないのに、第二段階を生半可に追求すると、お金の心配、就職の心配、予算申請が落とされる心配に苛まれて、守りに入った小粒でつまらないテーマ、小刻みな成果らしきものに取り憑かれる。

会社員の例だと分かりやすい。新入社員や若手のとき、まず部署の役割を果たし、会社の利益を拡大し、そのあとで社会貢献を考えればいい。日々の業務もままならないのに、オレがこの会社を改革します!社会貢献します!わが国の国際的プレゼンスを高めます!とか悩んでたら、「いったん忘れようか」とアドバイスするだろう。

上の本の著者は、ノーベル賞などを取った「生存者バイアス」のきいたサンプルです。発言にウソはなかろうが、大学院生にとっては、ほとんど説得力がありません。
本の前半は、話者の半生の振り返りでした。打算を度外視して、好きなことを追求した結果、こんなふうに成功しました。だから現代の学生諸君も私たちのように、自分の興味関心に忠実に、好きなテーマを探求してみたまえ、と言われても、「それはあなたが成功者だからですよね」としか思えない。ひねくれているのではなく、実際にそうですからね。確率論です。同じように打算を度外視して、消えていった先輩のほうが圧倒的多数だ。

宝くじ高額当選者が、全財産が300万円の後輩に、「だまされたと思って失敗を恐れずに宝くじを3万円分、買ってみろよ」とは言えます。ところが、全財産が2万円の後輩に、「だまされたと思って失敗を恐れずに、宝くじを3万円分、買ってみろよ。借金をしてさ。志を高くもて。買わなきゃ当たらないぞ」と言うのはムリな話です。

だからぼくは、上の本を読んでいても、ずっとモヤモヤしていました。著者が悪いんじゃなくて、科学・研究の世界の成功者に、科学・研究のあるべき姿を語らせる、という設定(座組)の時点で、すでに大学院生にはモヤモヤしか与えないことが確約されていた。
当事者以外(研究してないひと)は、楽しく読めたかも。変な本だな。

ぼくもまた、結論だけは、「打算を度外視せよ。セコイ成果を追い求めてはいけない」と同じように思いますけど、それは、
第一段階(他の研究者に対して役に立つ)に専念して達成するためには、第二段階(社会の役に立つ)が邪魔になるからです。邪念です。当面の生活費や、就職の不安があればこそ、第一段階をなるべく早くクリアすることが有効だと思います。迅速なクリアにおいて、別種の問題と混同することは下策です。

クラウドファンディングで新規事業や新規サービスを立ち上げるひとが、自己陶酔ポエムを書きますけど、読めたもんじゃないですよね。「町おこし」とか「業界の盛り上げ」とか、いちいち主語がデカい。その前段階に、あなたができることがもっと別にあるのではないか?と思ってしまう。
大学院生が、社会に役に立つ研究を、、と念じているさまは、それと同じ薄ら寒さを感じてしまいます。段階を踏めばよいのではないでしょうか。

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