2020年代の大学生の「ギリギリアウト」戦略
佐藤ひろおです。会社を休んで早稲田の大学院生をしています。
三国志の研究を学んでいます。
40歳で大学院に通っていると、「大学生ウォッチャー」になれます。
企業の大人たちは、「今年の新卒は、どんな特徴があるんだろう?」と興味津々で、ものかげから若者の動向を見守っていますよね。なんの把捉力もないような、「○○世代」というキャッチコピーすら求めがち。若者を知りたい大人は、ワラにもすがる。
大学院に入ると、さらに遡って、これから社会に出てくるひとたちを見ることができます。いまの2年生は、「2025年入社」ですか。すごいな。
ぼくが思うに、現代の若者(という括り方からして、年齢が離れすぎて解像度の低さを露呈しているわけですが)は、「ギリギリアウト」をねらうのがうまい。
もっとも顕著なのは、授業の単位取得です。
ぼくの「思い出補正」なのか、もしくは自分だけがそうだったのか検証不能ですけど、100点満点で、単位をもらえるのが60点以上の可(D)である場合、大学時代のぼくは、最低でも単位がもらえる60点を上回るようにがんばったんです。
いやいや当然だろ、と思って頂けたら、この記事に「共感」してもらえると思います。
ぼくが観察している若者たちは、45点~50点をねらう。
それじゃあ単位が取れないだろ、と思いきや、大学の先生も「万能」ではないので、最低限の出席数やレポートをカタチだけこなしている学生に、不可(落第)をつけるのは、いろいろ「面倒くさい」んですよね。
レポートならば、「不提出」は0点なので、学生たちは提出だけはする。他人の文章やWikipediaのコピーは、「ダメですよ」と明示されているから、それもやらない。
大学生は何を目指すかというと、「コピーではない。ただし内容は誤りだらけで、文脈が破綻し、結論が意味をなしていない駄文」を提出する。これが、45点~50点です。
いかなる駄文でも、客観的に「60点未満」と証明することは、現実問題としてすごく難しい。レポートの良し悪しは、機械的に査定できません。「この学部・学年のレベルならこれでも仕方ないのでは?」という内的な問題から、「このレベルを落第としたら、登録者の半数が落第する。政治的に不都合となるのでは?」という外的な問題まである。
大学教員を葛藤させることができたら、学生の勝利です。教員も、限られた時間に大量のレポートを読み、点数をつけねばならない。「ギリギリアウト」を、きちんと落第させている時間はない。
相手の状況(弱み)につけこんだ、ベストな戦略です。
教育の初期設計としては、「専門的な議論なんだから、きみたちに理解できてたまるか。分かるやつだけ、ついてこい。ついて来られたやつに、単位をやるよ」だったはずが、
いまや、「学生はお客様(授業料の納入者)」「教員と学生はお友達(上下関係を公然と持ち込むことはタブー)」となりました。学生から、タフな交渉をしかけられて、教員が冷や汗をかいているように見えます。
「オレたちのレポートを落第させてみろよ。落第を立証するための裁判の時間とコスト、卒業が遅れたことに関わる損害賠償と慰謝料を、先生が払えるならばね!!」という感じです。
ぼくは、いまどきの大学生ではないし、大学教員でもない。「年齢だけは大学教員と同じ」な大学院生なので、はたから見ていられます。
この大学生のすがたは、ぼくが大学教員ならば、「言ってはならない内情の暴露」として自主規制が働くか、「もはや当たり前すぎて書くまでもない」「書いても仕方がない職務上のウンザリ事項」なのでしょうが、ぼくは教員ではないので、書いてしまいます。
社会人の皆さん。これが、数年後の新卒社員です。
たとえるなら、閉店した直後、お惣菜を半額にしていたお店にいって、「どうせ廃棄するなら、8割引で売ってくれ」と交渉する客と同じです。取引の環境と条件(惣菜は翌日に持ち越せない)をして=足もとをみて、もっとも自分に有利な取引条件をもちかけるのに、長けています。
ぼくが学生のときは、ギリギリセーフの可(D)をねらった。半額セールに殺到した。半額よりもさらに値切るという発想はなかった。20年前の大学(お店)ならば、「もう閉店しました」「半額なら売りますが、それ以上は安くしない」と突っぱねることができた。
いまは外部環境の変化により、お店(大学)の立場が弱くなった。全員に対して一律に、「内緒にしてね」と言いながら、8割引にさせられている。閉店後に、売れ残りをさらに値切るひとが列をなしている状況。
なぜ今日の大学生が、「ギリギリアウト」をねらって、(おそらく自覚せずに)持てる交渉力をフル活用し、駄文を先生に送りつけるのか。
以前、学生たちが授業を早送りで見る、という話を記事にしたことがあります。現代のエンターテイメントは、見るべきものが多すぎる。キャッチアップするために、1つの作品に、じっくり時間をかけて鑑賞していたら、生産者による毎週の配信に追いつけない。だから早送りするのだ。
いまの大学生は、実態はどうあれ、主観的には、「やるべきこと、見るべきことが多すぎる」と感じており、1つの授業に、じっくり取り組んでいる時間がない、と感じているのではないか。
いまも昔も、アルバイトが忙しい「苦学生」はいたと思います。サークルが激務すぎるひともいました(ぼくがそれでした)。ですが、そういう問題ではない。
主観的に、エンタメ作品の消化も含めて、「忙し過ぎる!」と感じている大学生には、参考文献を読む時間なんかないし、レポートを腰を据えて書く時間なんかないし、ましてや、読み直して誤字脱字をチェックする時間なんか取れないんです。
エンタメの「消化」にて、早送りでトバシトバシ見ることは、「ギリギリアウト」戦略ですよね。作品を、見ていないことはない。雑談レベルで、言及できないことはない。ただし、味わっていないし、記憶にも残らない。
大人がいったことを、最低限、形式的に反映する。「指導を聞いていない」ことを、少なくとも裁判で立証できない程度に、外形的な要件だけは整えて、駄文を送り付ける。なんというタフな交渉者でしょうか。
……と、若者を「悪く」書きましたが、これ、若者の立場になると、ぜんぜん違う見え方をするんでしょうね。このようにタフにならざるを得なかった、不自由な時代背景があるのかも。
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