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発達障害と俺の半生②

前回の続き。通っている精神病院で行っていた自分の半生を語る会で話した内容をまとめてます。


社会人デビュー(プログラマ~導入コンサル)


2009.4月から社会人デビューを果たした。
大手ITになぜか入ることができてしまった俺は中途半端な意識の高さに酔いしれていた。(ソルジャー要因という噂も某OLから耳にしたが)

俺が残業まみれの世の中を変えてやるぞと本気で思っていた。
同期は80人。この中には3年でここの社長になると豪語した奴もいて中途半端な意識の高さだけが渦巻いていた。

しかし試練はすぐに訪れた。
電話取次である。
どう頑張ってもできなかったのである。
電話に集中するとメモが取れず。メモに集中すると電話の内容忘れるし。
そして会議の議事録。
これも無理。あきらめてこっそり録音して後から文字に起こした。

でも他の同期はそんなことせずスマートに全部こなしていたのである。
議事録はともかく電話取次は人生のリスクが大きいと判断した俺は
電話が鳴ると同時に先輩に質問に席を離れるという暴挙を実行しこれで難を逃れていた。ただ、毎回はできないので一応電話取って切った後に話しているフリをしたりして頭をフル回転させていた。

これ本当にツラかった。仕事をもらう前からこんな状態だからね。
毎日が必死だった。

幸いにも、その年の秋から各自に携帯電話が支給されることになり
社外からの電話は基本的に総務が受け付けることになったので難を逃れたのだった。運がいいね。

で、ここからプログラマーデビュー。
JAVAスクリプトがメインだったので、ある程度仕事を任されてそれだけに専念できたので仕事はできていた。

仕様書などもWEBベースで管理されており、確認したいことも基本チャットで対応していたので、苦手な口頭確認がなく非常にやりやすかった。これが2年目まで。

3年目に入り、ある変化が起きた。
うちの会社の社長が痴漢で逮捕されてしまった。
痴漢かよ・・・あほかよ・・

うちの部署は社長直属で、同期が多かった。別の社長に代わって方針が大転換し部署がなくなった。

で、軽い説明の後転籍するから、と同意書を渡され俺ら同期は子会社に飛ばされることになったのだった。

ちなみに3年で社長になると豪語した奴はこの3年間で激ヤセしており
痩せたジャバザハットみたいになっていた。メンタルを病んでいたみたいで、その後逃げるように退職していた。
やっぱり意識だけ高いとこうなるよなと実感した。

コンサルデビュー

転籍した先はITコンサルをしている会社である。プログラマーもいたけど、コンサル部隊が大半であり、俺ら同期はコンサル要員となっていた。

そんなわけでなんちゃってITコンサルになってしまいコンサルという言葉に
意識の高さを感じホワイトカラーに浸っていたわけだがこれが甘かった。

特性大爆発なのだ!!(ZONE 大爆発 NO.1)より

  • お客先で話した時の議事録を録音し忘れで真っ白で提出できなかったり

  • 客やうちの会社内部のスケジュール決めを行う時に、どうしても組むイメージが組めなくて時間がかかってしまったり

  • 並行作業できずに仕事をさばけなかったり

  • グラフが読めなかったりするので客先で説明できなかったりすることがあった

そう。バイトで経験した挫折感をまた経験してしまったのである。
ちなみにコンサルとして8社持っていたが、そのうち3社には出禁にされた。
残りの5社はたまたま保守案件がなくプロジェクトが動いていなかっただけなのだ。

「お宅の会社、素人でもコンサルタントになれるんですね。こんな出来じゃ自分達でやったほうが早いです。」

出典:某インフラ系企業戦略部チーム一同より

真顔でそういわれたのは今でもトラウマである。

仕事を抱えた先輩が自分の面倒をみてくれたが、特に先輩の女性陣に馬鹿にされたのが非常にキツく、トラウマをくすぐられ、すぐに休職したが
適応障害で5か月くらいは沈んだままだった。

女性は男性に厳しいからね。結構露骨に見下されたのをここでまた味わった
。また休職期間中、もちろん実家にいたのだが親には休職しているとバレないように毎日出勤しているかのように見せていた。
もちろん行く先はドトールかベローチェかマック。5か月間ずっとね。

俺は一人っ子なので、親に相談することはまずない。
親は相当な心配性なので、親が心配してくることで自分のメンタルもそれがプレッシャーとなり参ってしまう。

発達障害との出会い

この適応障害で苦しんでいる最中、どうしたらいいのかを模索した。
ネットで検索。図書館で物色。もちろん最初に浮かんだのは知的障害だったけど、コミュニケーション能力はある。どうやらそれではないらしい。

適応障害という診断をもらった病院で話を聞いてもらった。
自然と涙がこぼれていたね。

発達障害かもしれない、と精神科医から言われた。
これが発達障害との出会いだった。

まだ診断も受けていないのに、非常に嬉しかったのを覚えている。

自分は馬鹿で劣等種だと思っていたけど、なんだ障害なのか!じゃあしょうがないよな!と自分を受け入れてしまったからだ。(まだ診断してないのにね)

その医師に紹介状を書いてもらい、指定の病院へ通うことになった。
こうして発達障害との付き合いが始まったのである。

まずは1年間通って、知能検査など総合的な診断としてはADHDとLDという
正式な診断をもらった。
動作性IQと言語性IQに20程度の凹凸があり、動作性IQがネックだということがわかった。これが生きづらさの原因だったのである。ちなみに総合的なIQは96程度でいわゆる一般的な日本人のIQでだった。

また、根本的には短期記憶がほぼないこともわかり、これも今後の対策に活かせそうだった。

薬もストラテラ。合わなければコンサータを今後は試すということで
これらをまずは服用して様子を見るということになった。

自分が何者かになれて嬉しかった。
障害手帳も発行した。

もう完全にメンタリティーは、障碍者として生きよう!という方向にシフトしたのだった。

その後

障碍者として生きようとしたものの、家族には打ち明けられなかった。
「親に心配される」という事象が嫌なのである。それ自体が非常にストレスになってしまう。適応障害になっていた当時、付き合っていた彼女がいたが
いわゆる陽キャでカミングアウトできず、別れてしまった。

結局障碍者として生きるという覚悟が足りなかったのだ。
転職活動も、IT系でまた総合職を探し、また適応障害になって辞め・・・
を何度か繰り返した。もちろん家族には一切報告もしなかったし
バレてもいなかった。それほど徹底していた。
調子のいいときには彼女ができたけど、彼女が鬱病持ちで、泥沼化して最悪な20代後半を過ごしていて、正直20代には辛い思い出しかなかった。
安らげるのは金曜日の夜だけ。サラリーマンにとって嬉しいはずの土日はほぼ仕事のことでずっと悩んでいた。

またこの20代後半という時期は、大学時代の友人などは結婚したり
近況を聞きたいからみんなで集まったりということが結構盛んになる時期なんだけど、当然俺にも集まろうとか声がかかった。

残念ながらすべて断ってしまった。
そして結婚式にも呼ばれていたが、すべて断ってしまった。

ここで俺は友人関係をすべて切ったのである。

近況を聞かれたくなかったし、友人が幸せそうな場面を見ると自死に走りそうな気がしたためだ。本当に最悪な時期だった。

発達障害でなくても他の疾患があったり人生が上手くいっていない人は
友人関係をすべて切ってしまうという経験はするんじゃないだろうか。
やっぱり近況を把握されたくないんだよね。

このころから何度か発達障害の当事者会に参加するようになった。
ただ正直なところ、ASD特性のある人が多く自分のメンタリティーとはまた違ったんだよね。あまり話が合わなくて当事者会は2度行ったのみで辞めてしまった。非常に症状が重く働けない人たちがメインだった。

ただ、当事者会を通じて思ったことがあった。
俺ってメンタルが人一倍強いんじゃないかと。
そして学習しない馬鹿なんじゃないのかと。

適応障害に3度もなっているのに、うつ病にはならないのだ。
これは一種の才能ではないかと感じていた。

転機

3度目の適応障害発症の後、ようやく気付いた。目標が高すぎるのだと。
障碍者として生きるという覚悟はなく、世間体を意識してしまい意識だけは高かった。

まずは目標を下げようと。まず家族にはソフトに打ち明けた。あくまで傾向があるから、生活改善施設に通っているとフワッと伝えた。精神科に行っているとは伝えなかった。

そして、住む場所を変えるといいよと精神科医に言われたことを思い出し、思い切って一人暮らしを決行した。
また、このころからコンサータを飲み始めた。コンサータは自分にとって効果は非常にあって、自分の行動に注意を払って過ごすことが出来るようになった。

30歳なりたての時である。大学生時代、海沿いに一人暮らしをしていたことを思い出し、海沿いに住めば楽しかった原点に帰れて運気があがるのではないかと思い、思い切って湘南に住むことにした。

仕事は情報システム課を探した。プログラマーメインでできるところをデューダの担当に探してもらった。そのうちの一つに転職することになった
。クルマの部品関係の製造業で、創業長く歴史のある会社であった。

  • 部長、課長がうるさくない。自由にさせてくれる

  • 周囲の人間関係がユルくて心地よい

  • 繁忙期は忙しいがそうでない期間は比較的余裕がありユルい

  • 案件は自分でスケジュールをある程度決められる

  • 会話はチャットが主体。聞きたいことはすべてチャットして文面を残しておける

  • コロナ以前からリモートは可だった

  • 通勤が40分以内で楽

結果的には上記のように仕事がしやすくて、現在もここにいる。7年目となった。正直、運が良かったと思う。あとコンサータのおかげもあるね。

発達障害をはじめとする精神疾患を抱える人にとって
歴史のある安定した会社を選ぶというのが1つの解決策になるかもしれない

例えばTVCMに出ている会社なんかは成長している過渡期のところが多く
働く人間への扱いが適当になるんだよね。
勢いのある会社で働く、というのは絶対にやめておいた方がいい

仕事に慣れてくると、プライベートも充実してきたのだった。
まず土日に仕事で悩むことがなくなった。土日に悩まないとこんなに活力が沸いてくるのかと。

やはり仕事は一番大事なんだなと。
人生が上手くいかない場合、まず一番最初にすべきことは仕事を安定させることだ。そこに全力を尽くすべきである。

仕事がある程度安定すると、プライベートが充実していく。
海沿いに住んでいるので、もともと大学時代にやっていた海のスポーツを再開した。そして教習所に通って車の運転免許も取得。
トラウマを克服した。ただし、まだ薬は飲んでいるので運転は全くしていないが。

恋人も欲しくなり、マッチングアプリのペアーズに手を出したんだけど
1週間程度で良いと思う人を見つけて、すぐに会って、3週間後には恋人になっていた。恋人には付き合う時に発達障害のことは話したので特に隠し事はなく過ごしている。

そして同棲を始めた。
ルールを最初に決めておこうと提案し、ルール通りに家事をやることでトラブルを避けている。

現在

まだまだこれからどうなるかわからない。けども努力して安定し始めた。
今度は自分が同じように転職を繰り返して悩んでいる発達障害当事者にできることはないのか、考えてまた当事者会に顔を出すようになった。コロナ禍で閉鎖してしまった会もあったが、継続してやってくれているところに顔を出して、みんなの近況をきいていた。

当事者会に参加するようになると、目的意識が変わってくるものだ。
最初は悩みを抱えている人たちに少しでもアドバイスを・・なんて思っていたのだが、いつのまにか「友人が欲しい」に切り替わっていた。

20代後半で友人関係はすべて切ってしまったので本当に友人ゼロだったのだった。少し充実してきた今、友人が欲しいと切実に思ったのだった。
それを当事者会で語ったところ、そう思っている人が結構いた。

発達障害界隈で友人作りがメイン当事者会はないのかな・・・と探していると品川で開催されているあるオフ会を見つけた。それが2022年の12月。
そこ以外に開けたオフ会はなかった。
お酒などを飲みながら特性を語り合うことで本音が聞けるし少しふざけた自分を見せた方が、相手は話を聞いてくれるものだ。

そしてそこで知り合った人数人と神奈川県内で新たにオフ会を立ち上げたのだった。オシャレなバーカウンターのあるルームを借りて定期的にオフ会を行っている。

また、発達障害特性と似ているHSPの当事者会にも参加しており、そこでも友人作りと「会話の練習場所」として行っている。こちらも2022年の12月から行っており、非常に楽しいコミュニティを築いている。

これから先も、上記のコミュニティーに浸かって楽しみながら新しいことに
挑戦していきたいと思っている。

種類の違う第2、第3のコミュニティーに属することは人生を豊かにする方法の一つだと感じた。悩んでいる人こそ、コミュニティーを探してほしいなと思っている。

もう36,37歳になるが、定常発達の皆さんは結婚して子供を持って家を買って・・・と着実にステップアップするなか、自分はその域に達していない。
恐らく20代で一通りやることを30代後半でやっている感じだ。
なのでいわゆる世間体からみる「普通」からはかなりズレているだろうね。

自分は子供が欲しくない。
自信がないから、お金がないから、とかではなく全く興味がない。
もちろん、今の安定を相当な努力で手に入れたので、それを壊すのが怖いという思いもあるし、ムリすることなく生きていこうと決めているからもある。

幸い、恋人も子供ほしくないと言っており、恋人の妹夫婦も子供いないので恐らく強制される雰囲気はないのかなと。

この辺はもう流されるままになるかもしれない。

教訓とアドバイス

正直なところ、発達障害の生きづらさの真の核はASDだと思っている。
自分はASD要素はそこまでないので、コミュ能力そのものに関してはそれほど困難ではない。コミュ能力が劣っていて非常に困っているならば参考には
ならないと思うけど、教訓を列挙していきたい。

  1. 自分の特性を知るためには試行錯誤が必要

  2. 失敗を恐れてはならない。失敗しないと学べない

  3. 仕事は「嫌いじゃないこと」を選べ

  4. 障碍者雇用でなく総合職に挑戦するのはアリ

  5. 仕事は「勢いのある会社」だと置いてけぼりにされるので避けろ

  6. 発達障害者にとって意識高いことはデメリット。一歩ずつ着実にできることを増やそう

  7. 第2,第3のコミュニティーに参加すると吉

  8. 障害年金など貰えるものは貰おう

  9. 友人関係は基本は切らない方がいい。が、本当に辛いなら切った方がすっきりすることもある(新しく作ることが前提)

  10. 地方にいるなら都会に来い。当事者会の数も多いし、人に紛れることができるから余計な人間関係に気を使わなくて良くなる

  11. リスキーなことはやらないほうがいい(お金ない、安定しないのに子供を産む、など)

最後に

日本の将来は暗い。特に今の40代から下は老後も働き続ける必要がある。
また、高齢化率は更に上がり、福祉費用は削られていくだろう。
そして外国人もさらに増えていくだろう。

そんな中で発達障害者はどうやって生きていくのか。
正直わからない。
この世の中を支えている多数の定常発達者だって将来はわからないからね。

だが、コミュニティーに入っていれば少なからず助け合いはできると思うんだよね。この「助け合い」というのはもちろんどこまで助けるのかが難しいけど、情報交換の場だったり、語り合ってストレス発散の場にしたりすることが重要だと思う。

今社会が果敢に挑戦しているダイバーシティ(多様性を受け入れる)というのは失敗している。おそらく挑戦し続けて失敗し続ける分野だと思う。
多様性を受け入れられないというのは人間の本質だ。

だから、自分と合うコミュニティーに参加しながら、ダイバーシティに向き合って挑戦するというのが共通したみんなの今後の生き方なんだと思う。

俺はこのコミュニティーづくりに今後挑んでいきたい。
そんな人生をこれから送ろうとしているのだ。











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