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パワハラ=悪とは限らない。

ひろ健作です。
はじめに、

「パワハラは悪いことではない。」


そういうと、あなたはどう思うでしょうか。

いじめにしろ、パワハラにしろ、

「やるほうが悪い。
やられるほうは悪くないに決まってる。
ひろさんの言い分はおかしい」

そう言うと思います。
実際パワハラやいじめの現場を見るにつけ、
これでもか、これでもかとやられ、潰されます。

だから、基本はやるほうが悪いに決まってます。

ただもし、やられるのが全員ではなく、
あるターゲットを選んでいるとしたら、
もしかしたら、パワハラやいじめをやるほうの
”なにか”を刺激しているかもしれません。

それは”攻撃性”だったり、”優位性”だったり、
”自尊心””征服欲・支配欲”かもしれません。

明らかに”勝てる”そういう相手を選んで
パワハラ、いじめは行われている。

そうであるなら、
パワハラやいじめをやるほうの
向こう側に立ってこちらの景色を眺めれば、
また違った光景が浮かんでくるかもしれない。

安易な、パワハラ・いじめ擁護論ではなく、
どうすれば防げるか、回避できるかを考えたとき、
責める側の心理・行動原理を知っておくのも
一考だと思うのです。

さて本題。

私の場合、人生に役立ったできごとは、
楽しく、うれしいことや好きなことより、
むしろ、嫌で苦しかったときのほうが
学びは多かったように思います。

それまで順風満帆に過ごし、
職場の人気者として楽しく仕事していた私が、
ある日を境に谷底へと真っ逆さまに落とされる。
そんな経験をしたからです。

文章・計算・法律に異常に強い上司がやってきた日

それは20年前のことです。

人に気づかい、同僚の女子の手伝いを積極的に行い、職場でも一目置かれる存在になっていた。しかし会社員たるもの、仕事を楽しそうにしていると、どこか浮いてしまうところがある。

アイツはどこか変わってる。
なにが楽しくてあんなひょうひょうとしているんだ。

いつも浮いていた私は、ある面では誰かを引っかけていたのかもしれない。

そんなある日のこと。
立たされながら、文章のおかしさについて、上司の叱責・罵倒が1時間も続いていた。

「あのなあ、なんど言ったらわかるんだ! さっき俺が赤字でカンマを入れて修正しただろうが!」

「は? どこかおかしいですか?」

「見て見ろ、ここを! カンマが消えてるじゃないか!」

「あっ。ですね。消してしまいました」

ふつうなら笑い話で済むところだろう。しかし目を血走らせながら、文章を異常なほどチェックする上司は、私のミスを見逃さなかった。

「何度言ったらわかるんだ! カンマがなくなったら意味が変わるじゃないか!」

カンマ1個くらいで大したことないだろう。そう思っていた。だから上司がなんでそんなことくらいで烈火のごとくキレるのか、わけがわからなかった。

「はい」

そう言うしかなかった。ミスはミスだからだ。

しかし、パワハラというのはタチが悪い。仕事上のミスにかこつけて、日ごろのストレスをぜんぶ乗せて責めてくる。

「自分で何度も目を凝らして見ろ! と言ったろうが! こちらがどんだけ神経を使って見てると思っているんだ!」

「はい・・・・・・」

「そのくらい大したことないと思っているんだろう。違う! アンタは、人間的に冷たいんだよっ!」

カンマのことだけならそこまで傷つきはしなかっただろう。しかし折に付け毎日毎日責められ続け、腰は痛く、髪は抜け落ち、やせ細っていた私にはひと言ひと言が堪えた。

「なんでここまで言われなければいけないんだろう。僕が何をしたって言うんだ・・・・・・」

まるでからだの痛いところを突いてくるようなトゲのある言葉が刺さった。

「はい、わかりました」

まっ赤にペンを入れられた紙を見ながら、パソコンを打ち直していた。すると、パソコンに映し出されていた赤文字がにじんで見えた。泣いていたのだ。

当時の様子を描いた物語「エレナ婦人の教え」

ここの部分だけ読めば、あなたはそんな苦しい思いをしてまで聴く必要ないのに、とか、その上司が悪いとか、思うところはあるだろう。

しかし、だ。

当時、この上司が来たからこそ、私は文章が書けるようになった。論理的に物事をとらえることができ、説得力ある文章が書けるようになった。

さらには、妻やクライアントのプロデュースまでできるようになった。それはとどのつまり、一番嫌いで苦手な部分をえぐられるように鍛えられ、力を付けたからにほかならない。

長い人生において、順風満帆なことばかりとは限らない。むしろ嫌なことや苦しいこともあるだろう。

だがしかし、それをも乗り越えていったとき、観えてくるものがある。けっして真正面からぶち当たれと言っているわけではない。そうではなく、第三の道、戦うか逃げるかではなく、もうひとつの扉の入り口を見つけたとき、救われていくのだ。

そう思うとき、あのときの経験は決して悪いことばかりではなかったと気づくし、いまにつながっていると思えるのだ。

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