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エリック 優雅なる生活 第二話  『ビアホール・マインツ』第9章~第13章

第一話『チョコレート工場にて』第1章(あらすじ含む)~はこちら
第2章~第5章
第6章~第8章


第9章 古城にて

城は少なく見積もって築500年は過ぎているだろうか。基礎がしっかりしているせいか、古いながらも美しく保存されている。その門の前で僕たちは降ろされた。

真近で観ると城はさほど大きくはない。金持ちの大邸宅3軒分くらいだろうか。エリックさんの友人であり、オーストリアでは有名な資産家、ザイツさんの所有だという。聞くところによれば、城の中では街の人や観光客向けに“あること”をしているそうだ。

レンガ造りの門の両側は、たいまつがたかれている。薄暗くなってきたせいか、炎の揺れがやけになまめかしい。近づくにつれ、真っ赤に燃える薪からはパチパチという音を立て火花が飛んでくる。それはまるで美しく宙に舞うホタルのようだった。

季節は春。しかしここオーストリアでは、夕暮れともなると冷え込みも激しい。遠くの山々には万年雪らしきものも観えた。

「いらっしゃいませ」

暗闇を突く鈍い音を発し、門番らしきいかつい顔をした男がいきなり声をかけてきた。最初、男は何も言わず、ろう人形のようにじっと立っていた。ところが、そのまま通り過ぎようとした途端、低い音で声をかけて来た。気の緩んでいた僕は不意を突かれ、心臓が止まりそうになった。

「ここでは面白いことをやっている。答えは入ってからのお楽しみ」

 エリックさんは男に一礼すると、後ろを振り返ることなく城の中へと入って行った。

足元の石畳はすき間なく敷き詰められていた。雨が降ったのか、石の表面は濡れている。その石畳を20mほど歩くと、長いトンネルの洞窟に出くわした。その洞窟をくぐり抜けると、今度は小さなロビーに出た。周りには何も無い。

ロビーはドーム状になっていて、さらに3つに枝分かれした廊下へと続いている。その中で一番大きな、真ん中の廊下を歩いて行くと、2メートルは優にあろうかという巨大シャンデリアの吊るされた大広間に着いた。

大広間には上へと続く階段がある。いったいどこまで続くのだろう……。“この先行き止まり”なんてことになったらシャレにもならない。終始無言のエリックさんに続いて階段を上り終えると、壁一杯の緑に囲まれた部屋におどり出た。

そこで行き止まりかと思いきや、今度は細く長い廊下が続いている。その廊下には金のししゅうを施した真っ赤なじゅうたんが敷かれ、じゅうたんの両側には覆いかぶさるように観葉植物が置かれていた。

部屋には旅行者らしき人や現地の人が入り混じっていた。格好もきらびやかに着飾っている人もいれば、顔が見えなくなるまで深く帽子をかぶった人もいる。国も職種も違う実にさまざまな人がいた。

「これは何ですか」
「幻のじゅうたんに着いたんだよ」

「えっ、ま、幻のじゅうたん?」

思わずすっとんきょうな声を出してしまった。よくわからないまま連れて来られたと思っていたら、ヘンなことをエリックさんが言い出すからだ。

「かつてハプスブルク家が栄えていたときに古代ペルシャから調達したじゅうたんだ。時価200億は下らない」
「に、にひゃくおくえん? このじゅうたんがですか」

値段を聞いて飛び上がった。幅2m、長さは50mといったところだろうか。じゅうたんは小部屋から渡り廊下へとつながっていて、向こうの小部屋まで敷き詰められている。そのじゅうたんの上をソロリソロリとまるで囚人のように歩いていく人たちがいる。

 あれは何だろう……。しかもなぜか皆、裸足だ。

「みんな何をしているんですか」
風変わりなはじめて見るその光景に、僕は目が止まった。

「それはね……」
このあとエリックさんが思いも寄らない提案をしてくる。だがこのときは、この先どうなるかなんて予想すらできなかった。

第10章 幻のじゅうたん

「きみも歩いてみるかい」
「えっ」

不意を突かれた。

「このじゅうたんは世界に一つしかない。ザイツさんが何世代も前から受け継いできた代物だ。さあそろそろきみの出番だ。汗を落とさないよう歩いてくれるかな」
「どういうことですか」

「日本で言う“肝試し”みたいなものだ。自分はこのじゅうたんを歩くのに“ふさわしい”――そう思えたら、汗をかかずに歩けるだろう。逆に、“そんな資格自分にはない”と思って卑屈になったり、背伸びをしてムリをしたら、心理的プレッシャーによる重圧に耐えられなくなる。じっとりと汗をかき、じゅうたんを汚すことになるだろう。

これまでも、準備ができていないまま歩いた者が何人かいた、じゅうたんを汚しながらね。その償いとして結構な額を払ったと聴いている。ヒロくんの場合どうなるか……」

「えぇっ、そんな。いくら払ったんですか、その人たちは」

「さあ、どうかな。払う金額が決まっているわけじゃないし、私も詳しく聴いたわけではないからよくはわからない。払われたお金がたまった時点で、チャリティーとして使われることになっている。

面白いのは汚してしまって申し訳ないと思う人がいるせいか、なかには想像以上の額を寄附する人もいるそうだ」

「どうしてまたザイツさんは、そんな、わけのわからないことをしているんですか」

「遊び心さ。金持ちのユーモアとでも言おうか。単なるボランティアとも違う。ボランティアだと、ときに義務感や使命感が伴う。だけど、そんなものはここにはないよ。

財布のヒモを緩めてもらうにはどうしたらいいか、ザイツさんは考えたんだ。そこでちょっとしたユーモアを入れた。どんな形でお金を出すのが楽しいか、客の立場で考えてみたんだよ」

「それなら、わからなくもないですけど……。ただどうやって汗じみをはかるんですか」

「経験豊富な職人が見る。一人歩くたびにここだと思うところを押さえておく。廊下を渡り終えたらすぐにその疑わしい場所を濡れタオルで湿らせる。じゅうたんが十分に水分を含んだころを見計らって今度はタオルでふき取る。そのタオルに試薬をたらすんだ。

体からは塩分やアンモニアなどが出ているから、歩く前と後の変化量をはかればすぐにわかるって寸法さ」

「へぇー、そこまでやるかって感じですね。変人というか、ずいぶんモノ好きな人もいるもんだなあ」

面白い。それならひとつやってみるか。50メートルはあるそのじゅうたんの上を、まるで平均台を渡るように一歩一歩足を踏み出した。歩く途中で冷や汗が出ないかとヒヤヒヤした。だが乗りかかった船だ。やるしかない。

やっとの思いでじゅうたんを渡り終えると、一気に汗が噴き出した。全身の毛穴が、僕のため息と同時に開いた気がした。すかさず職人がやって来て、汗の落ち具合いを調べた。だが、すぐには答えは出なかった。

しばらくすると城の主、ザイツさんが満面の笑みを浮かべながらやって来た。

「遊びは存分に楽しんでくれたかい。これは一種の儀式なんだよ。200億というのはジョークでね、本当は2億だ。だから大したことはない。本物の200億じゅうたんは別の倉庫に眠らせてある。

これはお金に対する反応度を見るテストだ。『自分はこのゲームにふさわしい』と思えなければ冷や汗が出る。汗の量をはかると先に言っておけば、誰だって緊張するじゃろう。実はそれが狙いなんじゃ」

「そうだったんですか」

「もちろんなかにはまったく反応しない者もおる。200億と言っても何の反応も示さん。お金に対して関心がなく無頓着。お金をありがたがらないわけで、それだとお金はその人の元には留まらない。こうした特性もわかるのがこのゲームのおもしろいところじゃ」

エリックさんは僕の状況を、事前にザイツさんに説明してくれていたようで、日本語を使って話してくれた。

まぁひどいオーストリアなまりの日本語ではあったが……。

「もっと言えば汗が付いたかどうか、実は関係ないんじゃ。この儀式に参加する。そこで気づいたことが財産なんじゃ。

測定結果が出た。合格だよ。汗染みはついていなかった。渡り終えた所には、さすがに付いてはいたがね」

第11章 洗礼

ザイツさんはそう言って歓迎してくれた。ただ、正直遊ばれている気がした。楽しむ余裕なんてこれっぽっちもなかった。どこまでが本当で、どこまでがウソなのか、見分けが付かなかったからだ。

ふと我に帰ると、視界からエリックさんが消えていた。あせる気持ちを抑え、目を凝らし、あたりを必死に見渡した。すると離れたソファに深々と座り、紅茶を飲みながらくつろぐエリックさんが観えた。僕は、急いで彼のところまで走り寄ると、何年も離れ離れとなっていた肉親に逢えたときのごとく詰め寄った。

「エリックさん、ひどいじゃないですか! 来て早々変な冗談は止めてくださいよ。疲れがどっと出るじゃないですか」僕は想いのたけをぶつけた。

「ヒロくんにはきつい冗談だったようだね。悪かった、謝るよ。

 では、そろそろこのゲームの真のねらいを話すとしよう。お金に振り回されると、周りが観えなくなる。お金と健全につき合う――その大切さをきみにも学んでほしかったのだ。

 お金、それ自体に意味はない。ところが人はお金に影響され、ときに支配される。そこで経営を学びに来たきみにも試してもらったわけさ」

「おっしゃることはわかります。でも、着いて早々この洗礼はないでしょう」
「まぁそれもそうだ。許してくれたまえ。あまり堅苦しく構えないほうがいいと思ってね、あえて何も教えずゲームに参加してもらった」

手荒とも思えるエリックさんの歓待に、今日はホトホト疲れてしまった。いやはやとんだ旅になりそうだ。

第12章 ビアホール『マインツ』

壁に掛けられた時計の針は9時を指していた。そろそろ帰る時間だ。ザイツさんは僕たちを城の入口、門のところまで出て来て見送ってくれた。

名残惜しい気持ちと共にザイツさんに別れを告げると、エリックさんのスタッフが用意した車に乗り込んだ。車はプジョー206カブリオレ。フランス車はサスペンションが柔かめだが、この車はスポーティータイプ、乗り心地は堅めだった。

サイドブレーキ横の開閉ボタンを押すと、屋根が後ろのトランクにスルスルと隠れた。またたく間にクーペからオープンカーへと変身した。エリックさんの絶妙なハンドルさばきに操られ、キュルキュルとタイヤは音を立て、車は街を走り抜けた。

「運転もお上手なんですね」

お抱え運転手がいるのにこれほど運転が上手だとは――夢にも思わなかった。

「ああ、そうだよ。私は大の車好きでね。ほかにもあと3台持っている。一台はドイツ車、アウディA4カブリオレ。もう一つはイタリア車、ひと昔前のフェラーリ、それに007で有名なイギリス車、アーストンマーチンだ」

「えぇっ。そんなに持っているんですか。質素で倹約家だと思っていたのに……。社長とはいえ、エリックさんだけそんなぜいたくをしてもいいんですか」

流れる景色とは別に、目の奥には工場で働く人たちが浮かんできた。彼らに会わせる顔がない。申し訳ない気がしたのだ。

「言わんとすることはわかる。そんなお金があるのなら、なぜ社員に分配しないのか、そうい言いたいのだろう。

ただ、道具や持ち物に私はほとんどお金をかけない。単なるステータスで物を買ってはいないんだ。じゃあどういう物にお金をかけるか。こだわりが感じられるものは作り手の息づかいがこちらにも伝わってくる、そういったものなら最高だね。そう言えば、日本人は家に一生分のお金をつぎ込むそうじゃないか。それも一世代で使い終わるような家に。それならもっと別なものにかけたほうが私はいいと思うがね」

エリックさんの操るプジョーは、アスファルトの代わりに敷き詰められた石畳を右に左に走り抜けた。屋根をオープンにしても座席に風が入り込まない構造のせいか、ほとんど寒さを感じない。

「でも悪く思わないんですか? 工場の人たちに。彼らは少ない給料で働いているのでしょう? あの人たちの前でフェラーリなんか乗り回したら、それこそネタまれやしませんか」

「どうだろう。一人ひとり聴いてはいないから本当のところはわからない。不満が出ないところをみると、そうは感じていないのだろう。

ところで自然の風景にマッチした街並みを観ていると、美術館で名画でも観ている気がしないかい」

 エリックさんは僕の質問をはぐらかすかのように、それとなく話題を変えた。

「オーストリアをはじめ、ヨーロッパの国々は伝統と調和を重んじる。建築物一つひとつにその国特有の美意識が生かされているんだ。それは芸術性と言ってもいい。

 もちろんアジアにも混沌とした魅力がある。そのなかで日本はというと、ヨーロッパとアジアの中間、といったところかな」

「言われてみればそうですね。京都や奈良には古くからの建物がずいぶん残っています。二度戦争に遭ってもお寺や神社は攻撃をまぬがれました。住む人たちの暮らしや歴史を反映した建物は守られてきたんですね。

ただ都市化してしまった現代では、いたるところにマンションやオフィスビルが建ち並んでいます。看板も目立つ所に取り付けられていますし、これじゃあ味も素っ気もありません」

「写真では見たことがあるが、面白い所だね、日本は。都市と古い街とのアンバランスさがある。台湾 香港 中国ほどではないが、どこか調和がなく雑然とした感がある。さぁ着いたよ」

腕時計の針は10時を回っていた。降りた場所はネオンの光るビアホールの前だった。店の入口に立つと、スタッフの女性が中へと招き入れてくれた。

彼女は吸い込まれそうなコバルト・ブルーの瞳で僕を見つめた。ボリュームがありながらも美しくスレンダーな彼女のボディラインに思わず目を奪われた。めったにお目にかかれない魅力的スタイルだったからだ。

ヒザ上20センチ近くあるだろうか、短くタイトなピンクのワンピース。その短い丈から見える、ほどよく肉が付いたスラリとした足。ピッタリフィットした生地が見せるくびれた体のライン。風になびくストレートのブロンドヘア。その出で立ちは、たったいま雑誌から飛び出してきたモデルのようだ。

きらびやかな宝石でも観ているようだ。息が止まりそうになるほど魅力的な女性がここ、オーストリアにはいくらでもいるのか。

「モデルのように美しい人がいっぱいいるんですね、ここには」
石畳の廊下を並んで歩きながら、僕はエリックさんの耳元でささやいた。

「そうだね。けっこういるよ。ただ、日本で言うところの“隣の芝生は青い”ってこともあるんじゃないかな。

着物を着る和風美人、大和撫子(やまとなでしこ)というのかね、逆に私は黒髪の日本人女性に憧れるけどね。ふだんから当り前のように接しているものには、ありがたみは湧かないものだよ」

言われてみればそのとおり。人は、ない物ねだりをする。

店の中に入ると、横長のカウンターのほか、いくつか個室が用意されていた。収容できるのは80人くらいか。僕はエリックさんと目配せし、ライン川をガラス越しに見下ろせるカウンター席に座った。目の前ではポマードで髪をなで付けた品のいい男性スタッフがカクテルを作っている。

きちんとアイロンがけされたシャツ、ピシっと折れ線の入った黒のパンツが決まっていた。整然と服を着こなし品よく出迎えてくれた。なんだかこっちまでエリを正される気がした。

店の名は『マインツ』。この店ではオーストリアの歴史的ビールやさまざまな種類のヨーロッパビールを出すという。老舗の店らしく中は常連客ばかりで、観光客らしき人は見当たらなかった。

僕たちの隣では白髪で白髭まじりのじいさんがスタッフと談笑していた。

「さっきの続きを話そうか」
エリックさんは語り始めた。

第13章 お金の意味

「私が所有している4台の車、これらは会社の名義で誰が乗ってもいいことになっているんだ」

「えっ、ウソでしょう。プジョーとかアウディなどの乗用車なら分かります。だけどフェラーリとかアーストンマーチンはスポーツ車でしょう。2千万円以上はするんじゃないですか」

「まあね。クラシックタイプだから新車ほどではないがね」
「どうして“誰でも乗っていい”なんてことをしているんですか」

「みんなで決めたんだ。会社は家族みたいなものだ。だから個人で車を所有する必要がないんだ。実際いまでも私は時折り工場に出て汗を流す。みんなと食事をとったり、家族同士フレンドリーに付き合ったりするんだ」
「そうなんですね……」

家族経営の会社ならわからなくもないが、大きな会社では考えられない。エリックさんの話は常識を外れているように聴こえた。会社は「公私を分けて」「仕事中は私語を慎み時間を惜しむ」「コストを可能な限り抑え、利益を最大化する」「顧客獲得を目指し競争を勝ち抜く」――こうしたことが至上命題とされるからだ。

「日本では考えられないことです。せいぜい田舎の町工場や小さなお店で行われているくらい。古きよき時代ならともかく、現代では大型店や24時間営業のコンビニ、ネット企業なんかにお客を奪われ、家族的企業は隅に追いやられていますよ」

「日本人はアメリカ人同様トコトン便利さを追求するところがある。できるだけ早く手頃な値段でお手軽に――これが最優先事項とされてきた。

しかしすべてを合理的に、一切の無駄を省こうとすると弊害も出てくる。こうした事実に気づく人たちが出てきた。伝統を重んじていくにつれ、無駄と思えることにも意味がある、そう感じはじめているんだ。

たとえば「効率性」、一般に効率を上げれば上げるほどよいとされる。ただこれもやり過ぎると人間同志の触れ合いが減ってくる。職場の雰囲気が悪くなるんだ。当然士気は下がるしお客さんの扱いも機械的になる。こうしたことがひいてはクレームにつながるんだ」

「わかる気がします。スピードと効率性ばかり追い求めると、人のぬくもりや笑顔を失うってことですね」

「そのとおり。人はやっていることになにかしら喜びがあれば、かなりのことがやれるものだ。喜びがあれば、一つひとつのサービスや商品にそれが生きてくる。人間は機械ではない。だが悲しいかな、多くの人は目先のことに目を奪われてしまう」

並々と注がれたオーストリア産ビールを飲み干したあたりで、少し酔いが回ってきた。

「システム化された現在では、お金はすでに形ではなくなっている。電子決裁が当り前となり、携帯端末ですべての手続きができる時代だ。そこでのやりとりは単なるデータでしかない。すでにお金は所有するものではなくなっているんだ。“誰々の名義でいくら”と数字が並んでいるだけだ。いつも紙幣を持ち歩いているわけじゃない。

私にとっては車も同じようなものだ。誰のものかは関係ないんだ。乗れる喜び、運転する楽しみ、身近に居てくれる安心感、眺める楽しさがあれば良い。いわば恋人のように。恋人は目の前に居て語りかけてくれるだけでいいと思うものだ」

“恋人”と言われ、カレンのことを思い出した。しかもここのオーストリア産ビールは、エレナさんの家で飲んだビールと同じ味じゃないか。

「そんな気がします……」

「私はいまの事業を始める前に、会社を一つつぶしてしまった。時計職人が使う工作機械を扱っていてね。ヨーロッパ全土からの注文が、それは多かった。売上げもうなぎ昇りでね、お金もどんどん入って来た。

そこで従業員を次々と増やした。もっと儲けてやろうという我欲が出た。大型物件にも投資した。結果を出した者には特別ボーナスを支給、出さない者は容赦なくリストラした。

それが、あるときから山のように問題が噴出した。資金はショートし、労使間の緊張はピークに達した。対立は激しくなり、経営者側として臨んだ労使交渉では、会社に詰め寄る者も多くいた。

リストラされ、職を失い、自殺した男もいた。男の妻や娘が社長である私の部屋にまで押しかけて来たこともあった。

法的には何の問題も無かった。念には念を入れ、法律事務所を経営する友人弁護士にも相談した。すると、心配は要らない。オマエには非がないと言ってくれた。だからその言葉だけを信じてやってきた。万事うまくいくはずだった。だが、それは甘かった……」

「それでどうなったんですか」

「あろうことか今度は私の家族が出て行ってしまった。家財道具一式を持って。どん底だった、あのときは。私は自分を見失い、周りが観えなくなった。どんなときでも味方してくれた家族・忠実な社員たちのことを忘れ、金払いのいい得意先のことばかり考えていた。それしか私の頭にはなかったのだ。

 ほどなくして会社は不渡りを出し、倒産した」

「そうだったんですか……」

 返す言葉が見つからなかった。華麗な人生に見えていたエリックさんにそんな過去があったとは――。心なしか彼の表情が少し曇り、寂しげに見えた。

「会社を大きくしようと金に目がくらんだ。無理をし過ぎたのだ。身の丈を超えた経営が原因だった。無能だと思われたくなかった。“大企業”という一種のステータスが欲しかったんだ。

私は自分の会社を世の中に認めさせようと突き進んだ。社員の不満や顧客のクレームの声には耳を貸さなかった。その結果どうなったか。ゼロから育て上げた私の会社をつぶしてしまったんだよ」

「そんなことがあったんですね。いままで失礼なことばかり言って申し訳ありませんでした」

「いいんだ。気にすることはない。これまで経験してきたことが血となり肉となっていまの経営に生きているのだから。

たしかに倒産後、なかなか立ち直れなかった。しばらくは打ちひしがれていた。そのときに出逢ったのがいまの妻だ。彼女は落ち込む私をいつも励まし支えてくれた。その後私は彼女と再婚、家庭を持った。そのときから私は変わった。愛する妻に娘と息子がひとりずつ、家族ぐるみで付き合う社員。彼らが居てくれるからこそ、いまの私がある。車を会社名義とし、誰が乗ってもいいようにしているのも彼らへの感謝の気持ちからだ。それが私なりのささやかなプレゼントなんだよ。

ここで少し話題を変えて車の話でもしようか。

ヨーロッパ車はそれぞれに個性がある。国ごとにテイストが違うんだ。そこで代表的なヨーロッパ車を紹介するとしよう。はじめはフランス車、プジョー。近代的な知性を持ちながらも伝統を感じさせるこの車は、どこか粋な雰囲気を持つ。これは、“アメリカには迎合しない”――フランスという国の、独自性のなせるわざだ。

ドイツ車、アウディ。飛び切り美しいラインは女性的だ。しかしフランス車とは明らかに違う。ドイツ流クラフトマンシップ(職人肌)がかもし出す造り込みの完璧さにスキはない。

イタリア車、フェラーリ。ラテンの血みなぎる真っ赤な情熱は、ドイツとは正反対の香りだ。無駄に図太いエキゾーストノート(排気音)、ジャジャ馬だがネコのようにしなやかな足。それはまるでクセのある女性を扱っているようだ。

イギリス車、アーストンマーチン。いぶし銀の戦闘機を思わせるこの車は、かつての大英帝国をイメージさせる。007で有名なボンドカーの運転席に座った途端、まるで気分はジェームズ・ボンドだ」

よほどの車好きなのかエリックさんはいつになく冗舌だ。車の話になった途端身を乗り出し、止めどもなく話してくる。

「何でも造る日本と違い、ヨーロッパの国々ではメーカーごとの個性が際立っている。どの車も独自の味をかもし出している。独立した世界がそこにはあるんだ」

車の話で上機嫌となったエリックさんに、気になっていた給料の話をそれとなく振ってみた。

「誰もが会社の車に乗れるのはわかりました。でも、いくら平等と言ってもエリックさんの取り分まで平等というわけにはいかないでしょう」

 「それはそうだ。もちろん多くをもらってはいる。しかしそれとて合意の上なんだ」
「えっ、まさか! 文句を言う人はいないんですか」

「もちろんなかには不満を言ってくる者もいる。給料が思ったより少ないとか仕事の内容がいまいち合わないとかね。こうした不満や悩み、疑問が出ればできる限り耳を傾け、解決に努める。すれ違いが生じれば、話し合いの場を設ける。

ただみんな、協力し、譲り合う気持ちが根本にあるせいか、大した問題にはならない。お金じゃないからね、私たちをつないでいるのは。精神的なものなんだ。

それに私はほかにもいくつかビジネスを所有している。だからここで多くをもらう必要はない。君が想像しているほどじゃないよ。ちなみに私の会社のように、互いが対等な立場ですべて合意で決める企業はほかにもある」

よくはわからないが、エリックさんに興味が湧いてきた。エレナ婦人の長男と次男は職人気質で自営業を営む。一方三男のエリックさんは違う。やり手のビジネスオーナーだ。本質をつかみとる嗅覚と才覚がさえ渡っている。ユニークな視点と味のあるその語り口に、いつしか僕は引き込まれていた。

第14章 じいさんの『正体』へつづく

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