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「傷を愛せるか」を読みました

傷を負った自分、傷を負わせた自分からは、逃げることができない。

「傷を愛せるか」より抜粋

読み終えて、いま、何を感じているか。
内側を探ってみる。

なにもできなくても、見ること。

溺れそうな気持ちで生きていること。
溺れそうな時、どんな言葉や態度や人が必要とされるか。

「見えないこと」と「見ないこと」は、実は同じなのかも。見えないのは、私の想像力不足と偏見と嫉妬が原因かもしれない。見たくないから、見えないのかもしれない。その視点を忘れない。

感情労働、二次的外傷ストレス、専門家の受ける傷。

それらは、確かにあるのに、無いように、当たり前で、平気であるように、対処しなければならない。

どんな仕事に就いても、無職でも、ストレスはあるし、その解消は自分で行う。それが当たり前とされるから、専門家だけが大変なわけではないし、傷を抱えた人と比べたら、不満を訴えるのはおこがましいのではないかと、自分の違和感を収めようとしてしまうけれど、それによって、専門家の傷は見過ごされ、深くなり、燃え尽きる。

それは、傷を抱えた人、傷を見る人、どちらにとっても損失だ。

燃え尽きる事は、専門家の弱さなのだろうか。
その仕事に向いていなかっただけなのだろうか。

私は、燃え尽きたのだろうか。

何もできないからこそ、せめて傷を見ることを続けた事で、じわじわと傷を摺り込まれ続けて、しっとりとじっとりと拭えないものに漬け込まれたようだった。そして、結果として人の話を聴く仕事を辞めた。その後の沖縄移住で、人と関わることの良さを感じられるまでに回復したけれど。

私自身、使い捨てのように消費されたと感じる怒りは、ある。それは、傷を抱えた人達への怒りではなく、専門家の二次的外傷ストレスに無関心な日本という国や、雇い主への怒りだ。

専門家の傷も、もっと主張しなければならないのかもしれない。

専門家は、現場で働く人達だけでなく、
家族や友人、ボランティアの人達も、含まれる。

みんな、相手を思う気持ちから行動し、傷つくことがある。
みんな、わざわざ言わないだけで、辛さや悲しみ、怒りもある。

みんなの傷、もっと知られていい。
みんなの傷、もっと手当てされていい。
溺れて、息絶えない為に。

専門家が傷を主張する事で、傷を抱える人たちを萎縮させ、さらなる傷を負わせる事は、望んでいない。

傷を抱える人達の手当てにつながるように。傷や苦痛を我慢しなくていいのだと、ケアする権利があるのだと、それぞれ傷を抱えた仲間として、お互いを力づけたい。

著者が、くりかえした文章。

傷がそこにあることを認め、受け入れ、傷のまわりをそっとなぞること。身体全体をいたわること。ひきつれや瘢痕を抱え、包むこと。さらなる傷を負わないよう、手当てをし、好奇の目からは隠し、それでも恥じないこと。傷とともにその後を生きつづけること。

「傷を愛せるか」より引用

傷について考えると、傷と無関係な人はいない。

自分が受けた傷だけじゃない。
誰かを傷つけた事だって、ある。

受けた傷、与えた傷。

自分が与えた傷を忘れられない。
恥、自責、後悔は消えない。

誰かを傷つけた事に、
気づいていない可能性もある。

自分の暴力性や加害性が、恐い。気を付けていても、相手を傷つけてしまう。普段は隠しているつもりでも、自分の本性は漏れ出る。嫌になるけれど、自分をやめる事はできない。

「傷とともにその後を生きつづけること」
何もできないからこそ、せめてできることなのだろう。
何もできないからこそ、せめて誠実に、生き続けたい。

「傷を愛せるか 増補新版(宮地尚子:著/筑摩書房/2022年)」

おわり

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