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車中心の社会、なんとかならないのか。

わたしは、休日の朝とかによくジョギングをするのだが、歩行者のための歩道の狭さにはよくうんざりさせられる。
 自動車のための道路はきっちり確保されているのに、歩道はろくに整備されていないか、幅が狭すぎてすれ違うのも難しい。また、道沿いに植木が植えられていたり、電柱があったりするし、さらに自転車が追い打ちをかけるように通過しようとするから、歩行者にとって通路は余計に狭く感じられるのだ。

地方ならいざしらず、都市で暮らしているならそんなに車が必要なのか、わたしは疑問に感じています。
 自動車に乗ることで排気ガスから環境への影響が懸念されているし、毎日のように交通事故が起きて誰かが車に轢かれている。通学途中の子どもが轢かれることもよくある。車の事故による外傷は、完治するということはほとんどなくて、被害者の多くは後遺症を抱えて残りの人生を生きる羽目になるのではないだろうか?
 よく、「電気自動車なら環境にも優しい」などといわれているが、その電気エネルギーが火力発電によって賄われているのであれば、結局、地球環境を悪化させているのと同じことである。環境に優しい、どころの話ではない。
 クルマが地球環境や社会にとってこれほどリスクであるなら、人はできるかぎり車に乗るべきではないと思うのだ。個人的には、緊急車両、荷物の輸送、路線バス、福祉車両などをのぞいて、できる限り私有車を制限したらどうか? と思う。

さらに、街づくりの面からも、クルマ中心の都市設計になっていることが問題など思う。街のなかを幹線道路がつらぬくような都市設計は、地域の人々が憩うための場を奪い、この地域のコミュニティを分断しているのではないか。明確な統計や根拠があるわけではないけれども、なんとなくそう感じている。
 古くはアメリカで、ジェイン・ジェイコブズという社会活動家がいて、60年代にニューヨークの都市計画に反対して、自動車のための幹線道路がコミュニティを分断し破壊する、ということをたしか主張していた。
 アメリカも日本と同様に、クルマ中心の社会になっているようである。一方、ヨーロッパではまたちょっと事情が違うようだ。海外に旅行に行ったことのある人ならわかるだろうが、ヨーロッパでは古い町並みが大切に保存され、自動車の存在感をあまり感じさせない。そこではその地域の街のコミュニティが大切にされている、という印象をうける。

16世紀に、イエズス会の宣教師が日本を訪れ、その時の体験記をまとめて「ヨーロッパ文化と日本文化」(岩波文庫)という本を記している。
 その本の中には、ヨーロッパと日本の違いについて、いろいろな角度から記されていた。ヨーロッパでは、道路は人々にとって憩いの場になっていて、そこで人々は談笑したりする。一方、日本人にとっては、道路とはたんに通り過ぎる場にすぎず、人々が立ち止まって談笑したりする場ではないのだと、このポルトガル人宣教師はたしか述べていた。

このように、世界のその地域の文化的な違いがあって、それが都市の成り立ちに影響している面はあると思う。
 一方、これからますます高齢化や非婚化が加速していくなかで、一人で暮らす単身者は確実に増えていく見通しである。そうなると、孤独や孤立化がいっそう社会的な問題になっていくだろう。
 社会的資源が希薄な日本において、もっと地域の力を引き出して、コミュニティの再生をはかる必要があるんじゃないのか。いまのクルマ中心の社会、都市の設計の問題から、そういうふうにわたしは思うのです。

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