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私にとっての読書の流儀

だいたい中学生のころから、暇つぶしに本を読んでいた。十代のころは、読解力も未熟で、注意力散漫。本を読んでもろくに頭に入らず、字面ばかり追いかけている、ということがよくあった。だから、せっかく親のお小遣いで何かしらの本を書店で買っても、結局途中でやめて投げ出してしまうことがままあった。
 そんなわたしだったが、今では自分のことを、“優れた読み手(good reader)”であると、かってに思っている。たいていの本は、読んでいてすらすら頭に入ってくるし、ほとんどの本は最後まで読み通す。いったいなにが進歩したのだろうか、なにが違うのか。

わたしの読書の特徴なのか知らないが、一冊の本を読み終えてから次の本を読みはじめる…という読み方はまったくしない。ひとつの本を読みながら、並行して他の本も読み進めるのである。たとえば、仕事の休憩時間にはこの本を読む、家で就寝前にはべつの本を読み、休日に暇なときにはまたべつの本を読む、という具合に。その方が読書が捗るし、気分転換にもなる。
 また、読んでいて気になった表現や、参考になったような箇所があったら、そのページ数をチェックしておいて、後からGoogleドキュメントに転記するようにしている。そうやって書き溜めたフォルダが、わたしのGoogleドライブ内にはいくつもあり、折に触れて読み返すことにしている。それは読書のいい復習にもなる。

読む本はどうやって決めるのか。自分の興味関心にしたがえばいいと思うけれども、たとえばある本を読んだことをきっかけに、関連する別の本にも関心をもって読んでみようと思うことがある。
 わたしの場合は、評論家の故・立花隆さんが勧める読書リストに、社会哲学者のエリック・ホッファーの自伝があった。もう何回も読み返した本である。それを読んだことをきっかけに、こんどは旧約聖書や、モンテーニュや、ドストエフスキーの本も読んでみようと思った。そうやって、興味や関心が少しずつ拡がっていく、というのはある。
 また、最近なら通販サイトのAmazonが、過去の購入履歴を参考におすすめの商品をかってに勧めてくれるので、そういうのも参考になる。

むかしの学者が書いた本や、古典と呼ばれるような本には、やたら難解なものもあり、そういうものは早々と切り上げて止めるのもいいかもしれない。反対に、最後まで読み通したけれども、結局何を言いたかったのかよく分からない、ということもある。
 小説を読むときなどは、人物関係を意識することが鍵になる。人物と人物の相互の繋がりが分からないと、読んでいてもちんぷんかんぷんということがある。たとえば、ドストエフスキーの長編小説なんかはとくにそうだった。
 ロシア人の長ったらしい名前にくわえて、同じ人物を言い表すのに複数の呼び名や愛称が出てくるものだから、余計にわけが分からなくなる。そういうときは、ちょっと面倒くさいけど、自分のメモノートに人物関連図を描きながら読むようにしている。

最近は、日本語の本だけでなく、洋書(英語の本)にもチャレンジするよようにしている。ある程度の分量の小難しい洋書を読み通すのは、なかなか骨が折れる作業である。
 Amazonの電子書籍リーダーkindleでは、英単語の意味をその場で調べることができるメリットがある。そうはいっても、個々の単語の意味はつかめても、文章全体の意味がわからない、ということもある。とりあえず、一文を最後まで読むことを優先して全体をつかみ、それから単語を調べるようにしている。

わたしは、本は身銭を切って購入することにしており、図書館で借りることはしない。経験上、そのほうが最後まで読み通せると思う。
 よくネットでは、月に○○冊本を読むとか、年間〇〇○冊本を読むとか、自慢げに書いているような人がいる。はっきりいって、うすっぺらい本やハウツー本を何冊読んだところで、結果は同じでしょう。むしろ、少数の良書を、何回も読み返すような読み方のほうがいいと、個人的に思います。
 読書というのは、正直かったるい面があると思うし、YoutubeやNetflixなどで動画をだらだら見るほうが楽なのは分かる。しかし、日常生活にちょっと読書をくわえてみるだけで、生活が案外充実してくるのではないだろうか。

わたしが書物にたいして求めるのは、いわば、まともな暇つぶしによって、自分に喜びを与えたいからにほかならない。勉強するにしても、それは、自己認識を扱う学問を、つまりは、りっぱに生きて、りっぱに死ぬことを教えてくれる学問を求めてのことなのだ。
 ミシェル・ド・モンテーニュ「エセー 3」

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