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『ベビーカーを押す女』

 よく遊んでいた公園のすぐ裏に、そのラブホが建ったのは、私が小学三年生くらいの頃のことだった。公園を取り囲んでいるニオイヒバの生け垣を挟んだだけの場所にそびえ立ち、夕暮れ時になるとカラフルなイルミネーションも灯り出す小さなお城のような建物に、私は少し憧れを抱いていた。ラブホが建って以来、親を含めて大人たちは、あまりあの公園では遊ばない方がいいと、子どもたちに注意するようになっていた。特に子ども一人で長時間、公園にいてはいけないと私は親からきつく言われた。そのお城のような建物が建つまでは、そんなことを言われたことはなかったのに、どうして?と聞いても、親は理由を教えてはくれなかった。そのうち、誰が言い出したのか、日が暮れるとあの公園には幽霊が出るから、行かない方がいいという噂が流れ始めた。おそらく風紀を乱すような建物を快く思わない大人が流したデマだったのだろうが、純真な子どもたちはその噂を信じ始めるようになった。

 幽霊にあまり恐怖を感じなかった私は、そんな噂も親の忠告も気にすることなく、日が暮れても一人で公園のブランコに乗っていた。ブランコを思い切りこぐと見晴らしが良くなり、ニオイヒバの生け垣を越えて、そのお城のような建物をより良く覗くことができた。たくさんの小窓があったけれど、どの窓も決して開くことはなかった。見えないと余計に見たい思いは募った。生け垣を隔てただけの異質で怪しげな世界にますます興味を抱くようになった。

 それから一年くらい経った黄昏時のこと。いつものように一人でブランコをこいでいると、ベビーカーを押した一人の女の人が公園に現れた。こんな時間に赤ちゃんを散歩に連れてくるなんて珍しいなと思いつつ、赤ちゃんを見たかった私は、ブランコから下りて、その女の人の元へ駆け寄った。

 帽子を目深にかぶっていた女の人は私に気づくと、微笑んでくれた気がした。
「私、赤ちゃんが好きなんです。見せてもらえませんか?」
そうお願いすると、彼女はすぐにベビーカーの中を見せてくれた。
「命愛(めいあ)って名前なの。かわいいでしょ?」
彼女が見せてくれた微動だにしない赤ちゃんらしきものを見た私は驚いてしまった。
「えっ…この子って…お人形?」
彼女は何も言わずに相変わらず、帽子の下で笑みを浮かべているように見えた。

子どもがおもちゃのベビーカーにぬいぐるみや人形を置いて遊ぶなら分かるけど、三十代に見える大人の女の人が本物のベビーカーにリアルな赤ちゃんの人形を入れて散歩しているなんて、少し不気味に思えた。幽霊に遭遇するよりも、よっぽど恐怖を感じた。
とは言え、何も言わずに逃げ出しては、不快な思いをさせてしまう気がして
「かわいい赤ちゃんですね。」
と言って、私は必死に作り笑みを浮かべた。
彼女は「ありがとう、またね」と会釈すると、ニオイヒバの生け垣を越えて、薄暗くなって光が灯り出したお城の方へ姿を消した。

 幽霊なんかよりも生きているおかしな人間の方が恐ろしい。その日以来、奇妙な女性と出会ってしまった公園で、一人で遊ぶことはなくなった。友達と一緒の時でも、ベビーカーを押す彼女に遭遇したくないため、日が暮れる前には公園から出るようにした。本当はあの煌びやかなお城のイルミネーションは見ていたかったけれど…。

 あれから二十年以上の歳月が流れ、私はあの時出会った女の人と同じくらいの年齢になっていた。定職に就けず、バイト先を転々とする生活の中、今度は子どもの頃に憧れていたあのラブホで清掃の仕事をすることになった。大人になり、さすがにあの時の恐怖心はだいぶ和らいでいたけれど、お城から公園を見る度に、あの時出会ったベビーカーを押す女性のことを思い出していた。

 新入りの私はそのラブホに長年勤めているという女性の元で働くことになった。「208号室はいつも私が掃除しているから、手をつけなくていいからね。」
命子(めいこ)さんというその女性は愛想が良く、面倒見も良かった。角部屋の208号室だけはなぜか必ず彼女が念入りに掃除していた。

 ラブホの掃除にも慣れた頃、命子さんが不在の時間帯があった。クリスマスシーズンでいつも以上に賑わっていたラブホは、掃除も大忙しだった。
「お客様、待たせているから、208号室の掃除、早くしてくれる?」
支配人からそう急かされたものの、いつも必ず命子さんが掃除している部屋を勝手に手をつけてはいけないと思い、彼女が戻ってくるのを待っていた。

 しかし、なかなか戻ってくる気配のない彼女を待ちきれなくなった私は、とっくにお客様が退室し、散らかっていた208号室の掃除を初めて自分ですることにした。他の部屋と同じように、ゴミ箱の中のゴミを集め、ベッドのシーツやタオルなどを洗いたてのものに交換し、浴室をきれいにしようとしていた矢先、208号室のドアが開いた。
「何…してるの?」
振り向くと、命子さんが立っていた。
「すみません、今日は混んでいて、支配人が早くこの部屋を掃除してくれというものですから、命子さんを待てなくて…。」
いつも温厚な彼女は怒っているというより、悲しんでいるように見えた。
「この部屋だけは絶対、私が掃除するって決めてたのよ。24時間営業だし、このホテルで仮眠をとりながら、休日をもらうこともなく、二十年近くずっと、私のこの手でこの部屋をきれいにし続けていたのに…。」
二人きりの密室で取り乱し始めた彼女は、にわかには信じ難い話を語り始めた。
「私ね…このホテルができたばかりの頃、この部屋で一人でこっそり出産したのよ。子どもがほしいとか子どもを育てたい願望はなくて、どうしていいか分からなくてこの部屋で産んで、この部屋でその子のことを殺めてしまったの…。我が子を殺めた後、急に母性が芽生えて、無性にその子を育てて、一緒に生きたくなった。でも殺してしまったから、そんな願いは叶うわけもなくて…。誰にもバレないように子どもの亡骸を始末した後、このホテルのこの部屋に通い詰めるようになったの。また授かりたくて、いろんな男とこの部屋でしたけど、結局、二度と授かることはなかった…。そしてあの子が生まれたこの部屋から離れられなくなって、このホテルで働き始めたのよ。」
彼女が語った恐ろしい話の顛末を信じたくなかった私は
「そんなお話、作り話の嘘ですよね?命子さんがまさか赤ちゃんをここで産んで、ここで殺したなんて…。」
と問うと、彼女は見覚えのある笑みを浮かべてこう言った。
「本当の話よ。私ね、産んで殺めてしまった子に命愛って名付けたの。」

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