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隠(オヌ)狭間の戦い~鬼武将・常田大希による弔いと祝いの狼煙~ あの世とこの世を結ぶ花火を打ち上げたmillennium parade今昔物語

快晴の澄んだ空気の朝、目覚めると雪がうっすら降り積もっていた。本当に最後まで雪に縁があるな…と思いつつ、まだ冷える二月下旬の青空の下、黒い服を着て、祖父の納骨に向かった。

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祖父が亡くなった日もこんな風に青空で、雪景色が広がっていた。火葬されて骨になった日も、雪が積もっていた。白い雪がなかなか解けないまま、四十九日を迎えた。この日まで時間があったというのに、結局私は祖父のお骨を一度も抱えることもなかった。喪主じゃないから仕方ない。孫だけど、名字も違う別の家の人間だから、出しゃばるわけにもいかない。お骨の代わりに、私はお供えするための花束をぎゅっと抱えて、お墓に埋葬されていく祖父の最後をじっと見つめていた。生まれたばかりの頃はきっと祖父に抱き抱えてもらったことだってあるはずなのに、最後まで私は、ずいぶん軽くなったであろう祖父をこの手で抱えてあげることはできなかった。そんな後悔の念も抱きながら、祖父のお骨が入った白い袋を見ていたら、最後の最後に遺灰がさらさらと少しだけ風になびいて、空中に溶けて消えていった。そして重い墓石のふたが閉じられ、完全に埋葬されてしまった。まるで花火が消えた後、空に煙が残るみたいに、遺灰という余韻が私の目に焼き付いた。

以下、便宜上、millennium paradeの楽曲である「Fireworks and Flying Sparks」から引用する場合は〈 〉を使い、「FAMILIA」から引用する場合は《 》を使用する。

〈また逢いましょう 踊れ心の臓 ドクドクと血が巡り ひとひら涙ほろりと 愛がするりとこんにちは 朝日きらり 暫しの左様なら〉

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急勾配の坂を上った高台にあるその墓地は、空にも地上にも近くて、まるであの世とこの世の境目みたいな場所だ。見晴らしが良い。沈んでいく夕日も見えるし、昇る月も見える。祖父が埋葬された時は、風が強くて、寒くて、空気が澄んでいて、遠くの雪山もはっきり見えた。こんなに眺めの良い場所なら、ひとりでも寂しくないだろうと私は自分に言い聞かせた。祖父は生前、自分で用意したお墓に入る初代だから、先祖は誰も眠っておらず、ひとりきりで大丈夫かなと少し心配だったけれど、ここならきっと大丈夫だと思った。風当りは強い場所だけど、見通しの良いここなら、きっと夏になれば花火も見えるだろう。街を一望できるから寂しくないよと目を閉じて手を合わせた。

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日陰にある石段の上の雪はまだ解けておらず、陽光が射すとキラキラ光っていた。
その夜は二月の満月、スノームーンが雲間でぼんやり光っていた。
祖父が完全に旅立った日、雪が降ってくれて良かった。青空で良かった。山の雪景色も見えて良かった。夕日も満月もキレイで良かった。どうしようもない心の喪失感を、美しい景色が慰めて埋めてくれたから。

〈また逢いましょう 踊れ心の臓 何処迄も夜は巡り ひとひら御月がほろりと 彗星するりと駆け抜けたら また明日 暫しの左様なら〉

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この数日前、私は花を探していた。もちろんそれは仏間とお墓に供える花。たいしたことができない分、せめてできることと言えば、花を用意することくらいだった。少しでも長持ちしそうな新鮮で丈夫な花を探した。半日かけて何ヶ所も駆け回っていた。その時、車でずっと聞いていたのがmillennium paradeのファーストアルバム『THE MILLENNIUM PARADE』だ。最初は別に意識していなかった。なんとなく興味が湧いて聞いていただけだったのに、喪に服し、仏花を探す自分の心境にいつの間にか寄り添ってくれていた。

白、紫、黄色中心の花に交じって、一際目を引く青いカーネーションも選んだ。小菊はどこでも売っているけれど、大輪の菊は探さないとなかなかお目当てのものに辿り着けなかった。数種類の花が混じったブーケなら、どこでも売っていたけれど、私は一種類ずつ自分で選びたかった。だからいろんなお店の花、いろんな色の花を組み合わせて、オリジナル花束をペアで二種類作った。仏間用と、お墓用に。最後まで難航した菊を探している時、特に聞いていたのがアルバムの最後に収録されている「FAMILIA」。
繰り返される《もう思い遺すことは無い》という歌詞。これは死にゆく人の心境を歌ったものだと分かるが、故人を見送る側の心境にも当てはまる。

私はお墓に埋葬される祖父に思い残すことのないように、妥協せず、花探しに明け暮れた。本当はもっと豪華な花束にできたかもしれない。花も色も、もう少し吟味できたかもしれない。けれど、昔、家で育てた素朴な花を売り歩いていたこともある祖母なら、こういう地味な花を選ぶだろうと思って、施設にいて一度も祖父を見送ることもできなかった祖母に代わって、祖母らしい花束を作ってみた。

夜になり、最後に立ち寄ったお店の入り口で花をじっと眺めていたら、見知らぬ気の良さそうなおじいさんから声を掛けられた。「買わいんよ」(買いなさいよ)と。気に入るものがなかったから、そこでは買わなかったけれど、外に出たら軽トラックのクラクションをピッと鳴らされた。まるで知り合いに挨拶するみたいに。勝手にあの人は祖父だったかもしれないなんて考えて、ほくそ笑んだ。

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無事、花選びも終わり、四十九日の法要も納骨も終え、帰り際、叔母からお膳や天丼を渡された。疲れていたから、とてもおいしく感じた。と同時に、祖父がひとりでお墓に入ったというのに、こんなにおいしいと思いながら、むしゃむしゃ食べていていいのかと少しだけ罪悪感も生まれた。これは火葬の時もそうだった。祖父が焼かれている最中、お弁当に手を付けている自分を俯瞰すると、何、自分だけ生きようとしているんだとやっぱり罪悪感を抱いた。でも故人と一緒に死ぬわけにはいなかい。悲しみに明け暮れて、死んだように生きて、食べないわけにもいかない。ちゃんと食べて、元気で、私は大丈夫だよ、生きるよって祖父に示さないといけない。だから生きるために食べた。生き残るために、ちゃんと弔うために、おいしいものを食べさせてもらってしまった。

こんなことなら、祖父が生きている間に、元気なうちにもっとおいしいものを食べさせてあげれば良かったと後悔した。ほんの一時期、一緒に暮らしていた時期ならいくらでもおいしいものを食べさせてあげることができたはずなのに。なのに、当時の私ときたら、自分のことで精一杯で、料理も今よりもっと下手だったし、ちゃんとおいしいものを食べさせてあげることはできなかったなと今になって悔やんだ。生きるって後悔の連続だとつくづく思った。でもこんな風に思えたら、少しは気が楽になる。

《嗚呼 後悔なんて無意味だ あなたの瞳が輝いてる今が奇跡だ 愛を知ってしまった 此の期に及んで尚 生きたいと泣いてた》

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常田大希がmillennium paradeで表現している芸術的死生観は〈美しい夢と悪夢の狭間〉でうごめく、“滑稽な生と救いのある死”が魅力である。

《生まれも育ちも この世界の仕組みも 狂っているよ全部 俺もお前も結局》
〈誰しも結局は根無し草でしょう 行く先知らぬまま流されていく〉

健常者も障害者も男も女も皆平等であるべきだとか多様性云々と叫びつつも結局大して変わらない偽善ばかりのこの世の中で、狂ってる仕組みの中で、皆かろうじて生きている気がする。世界がどこに向かっているのかも知らずに。

これはかなり飛躍した推論になるけれど、ミレパを率いる音楽界の鬼才と揶揄される常田大希は本当に鬼の生まれ変わりだろうと思う。鬼というのは架空の未確認生物ではなく、鬼のようにのけ者にされる存在としてひっそり生き延びた人間が常田大希の前世かもしれないということだ。

個人の見解だが、人間が作り出した鬼というのは、昔は当然のごとく暗に許されていた間引きされた子どもや、島流しされた罪人という人間そのものだと考えている。

例えば障害を持って生まれ、社会に必要ないと判断された子ども、例えば罪を犯して、または無実の罪で島流しの刑に処された人間が、運よく生き延びて、いわゆる“妖怪や鬼”と呼ばれる存在になったのではないかと。
うっそうとした森の中で暮らしている妖怪と呼ばれる者たちは元は捨てられた子どもや老人かもしれないし、おとぎ話上の鬼ヶ島のような島が存在するとして、それは島流しされた人間たちが鬼のような風貌になって生き延びて暮らしていた島かもしれない。

特に節分時の鬼は人間の弱い心を体現したものであり、弱い心を追い払うという意味で、鬼を追い出すらしいが、そもそも鬼や弱い心が悪と決めつけて、排除しようとする人間そのものが鬼より、鬼ではないか。

弱者や都合の悪い者を排除しようとする人間の方が鬼より鬼らしい。必要ないと社会から追いやられた病人や老人、犯罪者、濡れ衣を着せられた者などが、鬼のような風貌、心を持ってしまうのは、台頭している“まとも”と呼ばれる人間たちがまるで悪の根源みたいに彼らをないがしろにするから、彼らは社会やまともな人間を恨むようになり、より鬼らしい存在になってしまうのだろう。

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今以上に、昔は簡単に人間は人間を間引いて、いくらでも“存在しなかった人間”を社会から放り投げていた。そういう捨てられた人たちが実は生き延びていて、集まって、どこかで別の文明を築いていて、その末裔が常田大希なのではないかととんでもないオカルト的仮説を真剣に考えてしまった。鬼ヶ島の大将が常田大希なのではないかと。

「Fireworks and Flying Sparks」では空から落ちてくる描写があり、

〈ゆらり揺らぎゆらり揺らぎ 意図する暇もなく揺れ落ちていく〉

「FAMILIA」では海から流れつく、水中から浮上する様が描かれている。

《ぶくぶく吐き出した泡一粒 海岸に散らばる無数の石の粒》
《海から揚げられた遺体は いつかの俺の姿か》

つまり空と海、空中と地上の狭間で、あの世とこの世の狭間で音楽を始めとする芸術を総体的に操っているのが鬼才どころか、本物の鬼としての常田大希という音楽家だと思う。

これはミレパのアルバムジャケットからも彷彿できる。地上で透明な小鬼たちが、妖怪、もののけ、幽霊の類を花火みたいに打ち上げようとしているように見える。空高く打ち上げられた花火は菊の花のように開き、そして菊の花びらのように散り、火花が降り注ぎ、落下し、また地上に戻ってくるという、まるで輪廻転生、繰り返される生死がアルバムの歌詞カードからは感じることができる。

アルバムが「Hyakki Yagyō」つまり“百鬼夜行”という鬼や妖怪たちの行進から始まっているように、鬼と化した常田大希がこの荒んだ社会、偉そうな人間たちに仕返しするわけではなく、単純に驚愕させるためにこの世のものとは思えない盛大な祭りを見せつけてやろうと企んで、millennium paradeという今までにない音楽をベースとした芸術文化を生み出したのではないだろうか。ある意味、鬼たちの反乱などという物騒なものではなく、壮大でまっとうな鬼たちのいたずらとも言えるだろうか。音楽の実験的な花火が打ち上げられた気がする。

これは過去と現在、未来を結ぶ音楽の花火でもある。クラシック音楽にも詳しい常田大希がミレパで作り上げる音楽は新しいのに、古典音楽要素も強い。素人の私でも上品な古めかしさと現代っぽさが融合した音楽、洗練されたオシャレサウンドが特徴という印象を受ける。オーケストラの音を存分に使用している「2992」然り、クラシックというのは海外のクラシック音楽に留まらず、日本古来の音も含まれており、例えば「Hyakki Yagyō」では花火の音や祭りのお囃子、「Bon Dance」では盆踊りのリズム、掛け声なども新しい音楽の一端を担っている。つまり2992年に向けて打ち上げられた花火だというのに、逆行するように、海外や日本の昔からの伝統的な古き良き音楽も重んじており、和洋折衷、今昔折衷というか、こんなに何でも混ぜて大丈夫なのかという試験的で今までにないサウンドが魅力だと思う。

鬼たちが遊びながら真剣に高く高く積み上げた音楽入りの筒に火を入れて、せっかく築き上げた音楽を花火として散らして盛大に披露してくれたのが『THE MILLENNIUM PARADE』という傑作アルバムなのである。

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ミレパの存在は今年1月8日にNHKのドキュメンタリー番組で放送された『常田大希 破壊と構築』内で詳しく知った。その時はミレパそのものよりも、常田大希というひとりのアーティストに惹かれた。自分が作る音楽に決して妥協を許さず、美しすぎると壊したくなると言って、素晴らしい音楽を作っては壊しを繰り返す、鬼みたいなミュージシャンだと思った。常田大希がもしも陶芸家だとしたら、せっかく綺麗に完成した絶品陶器をわざと割って、ヒビ、カケさえも芸術の一部とし、今までにない国宝級の陶器を作り上げようとしているのかもしれないと思った。

その番組を見て間もなく、祖父が亡くなり、しばらくの間は昔から大好きな別のアーティストの音楽が心の拠り所だった。
けれど、四十九日が近付く頃、たまたまミレパのアルバムを聞き始めて、特に「Fireworks and Flying Sparks」と「FAMILIA」に心惹かれた。

2月19日に放送されたミュージックステーションにおけるパフォーマンスも圧巻だった。あれはまさしく妖怪や鬼たちの静かな襲来だった。あんなMステ見たことない。Mステであんなライブが見られるなんて思ってもいなかった。ミレパだけ異質で、異様な雰囲気だった。地獄から這い上がってきた妖怪、鬼たちがステレオタイプの音楽界で革命を起こそうとしているように見えた。

それもこれも常田大希がKing Gnuという名実ともに揺るぎないバンドで音楽活動も展開していたおかげだろう。常田大希という鬼は本当に頭脳明晰だと思う。好きな音楽を適当にやろうとしているわけでなく、才能に自惚れるわけでもなく、ある意味計算し尽くして、遊びながら壊すのが巧みで、さすが鬼の大将だな、常に未来を見据え、後世に残る音楽を真剣に開拓しようとしているんだなということが聞いているとよく分かる。

そう、新しい音楽には違いないけれど、きっとこれは2992年にはクラシック音楽と呼ばれる存在になる音楽なのだと気付いた。2992年になっても、現在クラシックや古典、伝統文化として受け継がれているものを残すべく、積極的に古来の音楽や文化も踏襲し、常田大希は今現在の音楽、過去のクラシック音楽という両方の音楽を、未来につなぐ役割を果たしてくれる重要ポストを担う音楽家でもあると考えた。

トレンドにはとらわれず、自分の理想のサウンドを突き詰めるというひどく個人的な趣味みたいな音楽を続けているように見えて、未来の音楽の可能性を見据えた実はとても壮大で意味のあるプロジェクトを遊び感覚で成し得ているのが、ミレパなのだと。

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納骨を終えた夜、満月の明かりを頼りに、暗闇の中、ミレパを聞きながら、帰路を運転していた。火葬の夜みたいに泣けた。喪失感、悲しみ、それからこんな日まで落ちこぼれ家族とのいさかいによる不快感、ほんとに《狂っているよ全部》、特に自分が、なんて思えて、どうしようもないぐちゃぐちゃな気持ちで2時間以上運転を続けた。つまり40分未満というそれほど長くない長さのアルバムは3周以上繰り返した。時折、涙を流しながら暗がりの中、ひとりで車に乗っていると、まるで自分が妖怪みたいに思えた。これはまさに“百鬼夜行”だ。ミレパと一緒にあてもなく夜行している気分になった。このアルバムは暗闇がよく似合うと思った。暗くてあまり見えない方が、鬼や妖怪たちを感じられるし、花火の明かりもよく見える気がするから。

この世は狂っているし、狂っているのに、愛なんかを信じて誰かにすがってみたりする、どうしようもない人間たちの生き様は滑稽だ。人間社会から排除された鬼たちはそんな愚かな人間を嘲笑い、弔おうとしているかもしれない。でもそんな狂っているこの世でさえ死が近づくと、生まれて良かったとか、幸せだったとか思えてしまうという救いみたいな死。打ち上げ花火のように命が生まれて、時にはもがきながらも盛大に生き抜いて、「matsuri no ato」、後の祭りみたいに命尽きて、死が訪れる。それを繰り返して、命をつないでいる愚かながらも必死に営みを続けている人間たちを鬼たちはもしかしたら許し、祝福さえしてくれているのかもしれない。さすが鬼の大将、常田大希は包容力があって、人間よりも寛容で広い心を持っている。millennium paradeが2021年、花火にして打ち上げてくれた音楽を筆頭とする芸術はきっと2992年以降も消えることはないだろう。

《走馬灯に映る全ての記憶が あなたで埋め尽くされたなら もう思い遺すことは無い》

青空の下、遠くに雪山が見えると、祖父を埋葬した墓地から見た山を思い出し、その景色を見るとなぜか「FAMILIA」というレクイエムが自然と思い出され、感傷的な気持ちに襲われることが増えた。

そして3月1日、CDTVライブ!ライブ!でもミレパが2曲も披露してくれた。曲をバンドに合わせるのではなく、当然のように曲に合わせて楽器やメンバーを自由に変えるミレパはまさにオーケストラみたいな楽団だと思った。
「Fly with me」でも“狭間”を感じることができた。“downとhigh、落ちて飛ぶ、沈下と浮上”を繰り返す鬼たちは音楽に溺れながら、楽しんでいるように見えた。

「FAMILIA」ではボーカルに井口理も迎え、まるでKing Gnuにオーケストラを引っ提げたような荘厳で厳粛な雰囲気が最初から最後まで漂っていた。スモークが立ち上る演出は、火葬場、お線香を彷彿させた。ここでも確かに“狭間”を感じることができた。あの世とこの世、天国と地獄の狭間を。井口理の高音ボイスはいつも以上に神秘的に聞こえた。彼は天使だと思った。逆に常田大希のボーカルは悪魔のようだった。天使と悪魔のささやきが不思議なことに反発し合うこともなく、馴染み合って共鳴し合う。音楽を展開している舞台が“狭間”だからこそ、両者は共存し合えるのだ。

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狭間は“結界”と言い換えることもできる。ここからは少し音楽誌(『MUSICA』2021年3月号 vol.167)を参照する。ミレパを代表した常田大希と森洸大、佐々木集という三人のメンバーのインタビューによると、“『産霊』(ムスヒまたはムスビ)が語源である『結び』に関して、結び目は外と中の境界線になっており、自分と他勢力の間には結界があり、その結界の部分つまり境目を繋いでいるのが結びであると。『鬼』の由来は『隠』(オヌ)という言葉が訛ったという説もあるらしく、つまり鬼は隠された者、目に見えない存在、誰ともされない者であり、そんな鬼を『結ぶ者』に抜擢し、ミレパは結びとしての役割を果たす『鬼』を象徴的な存在に定義づけよう”としているらしい。マイナスイメージが強い鬼に結びという役目を与えることで、“誰ともされない者=鬼”がプラスのイメージに変わるのである。

散々ミレパ、常田大希について話しておきながら、今さらではあるが、私は当初、ミレパや常田大希は自分が今まで聞いてきた音楽と比べて、自分には合わないというか、すべてが洗練され過ぎているし、ちょっと強面な雰囲気もあるし、近寄り難くて、背伸びしないと聞けない音楽だと勝手に壁を作って、遠巻きに様子を伺っていた。

しかし、この結びや鬼について語る彼らを知って、鬼になろうとしているなら、なんだ自分と同じだと、急に仲間意識が芽生えた。隠されて、誰ともされない者なら、自分もそうだと。なんとなくまっとうな人たちとは馴染めなくて、疎外感を感じつつ、反骨精神を剥き出しに生きている自分とミレパは重なる部分があると気付いたら、一気に親近感が湧いた。ミレパの好感度が上がった。

しかも鬼だからって僻んだり、人間を敵対視するわけではなく、結びという難しい役割を担おうとしていて、鬼の悪いイメージさえ払拭しようとしているミレパに憧れるようになった。

鬼に関しては私も昔から疑問を抱いていて、どうして鬼だからって悪者扱い、疎外されるんだろうとずっと違和感を覚えていた。『桃太郎』の鬼は何も悪いことをしていない。むしろ桃太郎の方が悪者だと思う、とか大学試験の面接で話した記憶がある。(子ども文化コースを受験していたので。落ちたけれど。)

そんな悪いイメージがつきまとう鬼に音楽の力で良いイメージを与えようとしている姿勢に共感できた。ミレパは怖そうに見えて、やさしい人たちなんだと思った。当初、偏見の眼差しで見ていた自分こそ鬼だったと反省した。

「Fireworks and Flying Sparks」の歌詞において
〈踊れ心の臓 ドクドクと血が巡り〉〈暫しの左様なら〉
など漢字の使用も多く、常田大希は武士の生まれ変わりのようであるとも思った。まるで自害、切腹でもしようとする武将のようだ。この曲では口笛の音も印象的で、死なんてなんともない、武士として当たり前のことだというような潔い覚悟も感じられる。

つまりまとめると常田大希は音楽界の鬼武将と言えるだろうか。2992年という果てしない未来を見据えながらも、古来の文化も重んじており、2992年には歴史上の人物に名を連ねていそうな気がしてならない。

その前に近い将来、常田大希はNHK大河ドラマの音楽も担当することになるだろう。「2992」はNHKスペシャル『2030 未来への分岐点』のテーマ音楽に起用されているし、ミレパの豪華で迫力ある壮大な交響曲のような音楽はもうこのまま大河ドラマのテーマ音楽にもなりそうだ。

2992年には常田大希自身が大河ドラマの主役になっているかもしれない。
millennium paradeという今昔物語が原作になっているかもしれない。

「今は昔、音楽界の鬼武将という者ありけり。結界にまじりて音楽を作りつつ、壊しては花火として打ち上げ、皆を驚かせた。名をば常田大希…」

語り継がれるべき音楽家が誕生した、閉塞感が漂う混沌とした2020年代の始まりを『THE MILLENNIUM PARADE』の祝砲で盛大に祝福したい。

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