短編小説『サヤカ2』2020.8.21


 男に女を売る生活で食っていこうと考えた母のようにだけはならないと、私は小学生のときに誓った。七十歳になって風俗の世界から足を洗った祖母は、母に代わって私を育て、繰り返し、「あんたは綺麗に生きなさい」と言った。祖母から母へ受け継がれた男へ媚びる遺伝子は私のなかにも確実に存在して、その遺伝子が初めて使われたのが、たぶん小学生のときだった。
 その日、クラスの人気者の男子が、私の「顔だけはかわいい」と噂しているのをきいた。だからその男子に、ちょっと優しくしてあげようと思うようになった。小学生なんて単純で、その人気者男子は好きな子がいるらしい、と噂が流れるようになるのはすぐだった。
 私を好きだと言うその男子から、綺麗な箱に入ったお菓子をもらって、持ち帰った。玄関のドアを開けると、祖母が廊下の真ん中でついたてみたいに、肩幅に両足をひらいて、背筋を伸ばして立っていた。男子からもらったお菓子を自慢しようと、その男子の名前を口にしたとき、祖母は私を殴った。
 玄関口で殴りつけられた私が頬を元の位置にもどしたとき、祖母の姿ごしに見えたのは、首にロープを巻きつけてぶら下がる母の姿だった。風俗で働いていた母親は、私が小学生のとき、男に女を売るのに疲れて死んだ。「これからもこんな日々が続いていくと思うと、疲れました」。母の遺書はそれで、私はその遺言を、男に女を売る生活を毎日続けるのは疲れるんだな、とありのままに受けとった。祖母が泣いていた。母を見て、ではなく、男からお菓子をもらってきた私を見て泣いていた。
 だから私は小学生のあのとき、男に女を売る女になるのはやめよう、と思った。病気でも怪我でもなく、毎日に疲れて死ぬなんて嫌だ。私は祖母に育てられ「綺麗に」育った。高校生になった今でも、彼氏がいたことすらない。
 私は正しく生きていた、と思う。中学までは生活保護をもらって暮らしていたが、奨学金をもらって高校生になれてからは、バイトをはじめて、自分の食費をちゃんと稼いだ。今時高卒じゃ雇ってもらえないから、また奨学金を申請して大学にいこうと思い、必死で勉強した。風俗以外の道で生きていくために、努力していた。私は悪いことなど何もしていなかったはずだ。なのに、祖母が自転車との事故にあって大腿骨を骨折して入院し、その直後、新型コロナウイルスが流行って、バイト先が閉店した。フランチャイズのオーナーはもう六十五歳で、良い機会だから、と言って、経営していたコンビニ、私の働いていたバイト先を閉めた。
 家のエアコンが壊れたから、私は外を散歩していた。コンビニの前に座ると、自動ドアが開くたびにすずしい風が吹いてくる。中に入ったら商品が見えてお腹がすくから、入らないようにしていた。母が死に、祖母も入院中で、病院の書類がどうだとか保険がどうだとか、病院代は後で返金だとか、祖母とぶつかった自転車の運転手と話し合えだとか、祖母の代わりにいろんな場所に駆り出されていたから、私はまだバイトをみつけられていなかった。
 祖母に言われた通り綺麗に生きようと思ったけど、何かに邪魔されているらしかった。結局、私が今できることなんて、何もない。強いていえば、そこを歩いている男に、非合法的に、契約書などを交わさず、女を売る行為くらいしかできない。……お金がない。
 お腹がすいたけど、もらった生活保護費を日割りで計算した結果、今日はもう何も買えない。現金給付も、申請の書類が足りなくてまだもらえていない。もうなにもかもがわからなくなっていて、今の私の頭の中のお金を稼ぐ方法は、男に女を売る、しかなかった。
 今、自分の周囲がどうなっているのかを知りたくて、手に持っていた唯一の情報源であるスマホでニュースをきく。顔をあげると、魂を抜かれたみたいな表情をした男が、こちらを見ている。
 私は、昔に母親から聞いた、売春の方法を思い出した。笑いながら言っていたから、本当か冗談かわからない方法。
 指を一本立てる。一時間、という意味だ。男が私の顔を見つめている。唇の下に三本の指を立てる。三千円。
 男はしばらく、私の顔を凝視していた。今時、コンビニと同じかそれ以上の量の風俗店があるし、私は高校の制服を着ているから犯罪だとわかるし、コロナ感染の危険性もあるから、何も返事をしないのは、三千円を出し渋っているからだと思った。イラついて男を睨みつけたら、男はなぜか怖がるような表情を見せた。
 指を二本にして、見せる。一時間二千円。これなら買ってくれるだろうか。犯罪でも、コロナの危険があっても、それ以上に安ければ。心の中で、自分にイライラしていた。結局、私には祖母と母の風俗嬢の遺伝子がぎっしり詰まっていて、これでしか生きていくことができないのかもしれない。正しく生きるとか、頑張るとかなんとかいって、結局私はその程度の人間だったんだ。
 男は「二万?」と言った。
 からかわれたと思った。犯罪を二万で買う勇気が、この魂の抜けたような男にありそうには見えない。私は首を振る。
「二千」
「二千で、何してくれんの」
「なんでも。一時間以上かくまってくれたらそれで」
 何するも何も、私には性的な知識があまりなかった。どんなことをするのか、本当に本質的な部分しかしらなかった。だから、なんでも、と言った。この際、言われたらなんでもしてやろうと思った。
 男はぼうっとした表情で、コンビニの中に入っていき、しばらく私を待たせた。新型コロナウイルスの感染者がまた増えたらしいと、スマホから流れるニュースで知った。
 もしかしたら、性的な行為以外にも、何かされるかもしれない。考えて、怖くなった。親族のいない私は、殺されたってどこかに売り払われたって誰も気づかない。ああいう間の抜けた表情の男が、本当は一番恐ろしいのかもしれない。何を考えているかわからない、ああいう表情が一番……、と考えていたら、男がコンビニから出てきた。
「二千って税抜き?」
 男が言った。そんなこと考えていなかったので、適当に答える。
「じゃあ、税抜き」
「四時間な」男が言う。
「なにさせる気なのか、先にきいていい? 逃げないから」
 その時の私の心臓は、はちきれそうなくらい速く、鼓動を打っていた。男にこれから何かされるのと、今心臓がはちきれて死ぬの、どっちの方が苦しいだろう、と考えながら、答えてもらえるはずのない馬鹿で率直な質問をした。
「家についてから話す」
 男はそう言うと、私に背を向けて、ついてくるように促した。

 男の家につくと、男は廊下の明かりをつけて、手で部屋の奥に入るように促した。
「大したものないけど」
 なんて言いながら、男は足おりテーブルの上にビニール袋を置く。
「名前は?」
 本名をいうのは怖かったから、学校のクラスメイトの名前を言うと決めた。大体、こういう行為をするときは偽名でやると決まっている。
「サヤカ」
 男は「ふーん」と言った後、「座って」と足おりテーブルの前に座るよう促す。
「さて」
 男が急にちょっと大きな声を出したから、びっくりして体が跳ねた。怯えているのがバレたかもしれないと思って、また怖くなって、緊張をほぐすために自分のふくらはぎをわざとつねった。
 男はレジ袋から烏龍茶を取り出して、足おりテーブルの上に起き、キッチンのほうへ向かっていく。
「烏龍茶のむ?」
 両手にグラスをもって、男はきく。私はまだ体がこわばっていて、返事ができなかった。男は二リットルペットボトルの蓋を開けて、グラスに烏龍茶を注いだ。そしておにぎりを四つ、テーブルの上に広げる。
「二つ選んでいいよ」
 ツナマヨ、鮭、梅、こんぶ。全部おいしそうだった。でもなんだか悔しかった。お腹が空いているからって、コンビニのおにぎりに期待している私自身が、男から食べ物をもらおうとしている今この状況が、悔しい。
 さっさとやることを済ませてやろう、と思った。男の手を取って、自分の胸まで導いていく。
 ──こういうことがしたかったんでしょ。男って、そういうことでしょ。
 すると男は、私の胸を触った瞬間に、情けなく笑って、困ったように手をひくと、私から離れていった。
 急に恥ずかしくなった。この男は私に、まだ性的欲求を感じていないのかもしれない。確かに胸はないけれど、ここまでしても欲情してもらえないのか、と思う。それともやり方が間違っていたのか。とにかく馬鹿みたいだ。
「変態。何が楽しいの」
 悔しくて、何故か泣けた。私には男に女を売る才能すらないというのだろうか。母よりも生きる才能がないというのだろうか。私を残して勝手に死んでいったあの母よりも?
「楽しくはないけど」男が言う。
「じゃあなんなの。なにさせる気。信用させて、そのあとひどいことするのが好きなの」
 私は自暴自棄になって、男を責めた。私が男を翻弄してやろうと思ったのに、この男の思考はまったく読めない。
「なんでそうなるの。僕にそんな勇気があるように見えるの」
 男にそんな反論をされるとは思っていなくて、男の顔を見つめてから、私は困った。確かに勇気のなさそうな、情けない顔をしていた。
 私はもう諦めて、とにかく仕事を探すことにした。この男がなんだって構わないけど、お金をもらっているなら働かなくちゃいけない。
「なんか頼んでよ。雑用とか」
 私は立ち上がって、仕事を探す。
「サヤカって中学で何部?」男が突然きいてくる。
「高校生なんだけど」
「嘘だろ」
「帰宅部。バイトしてたけどなくなったからここにいるの」
 髪を束ねてあたりを見回すが、家の中に家具や雑貨はほとんどなくて、殺風景だ。
「掃除用具とかないの」
「それよりやってほしいことがある」
 男が急に立ち上がったので、私は後退りをした。一歩後ろに下がると、男が一歩こちらに近づいてくる。
「なによ」と身構えれば、男はへらっと表情を緩ませた。
「笑って」
 思わず「は?」と言い返した。
「意味わかんないんだけど」
「笑顔がみたい」男が言う。
「きもちわるい」
 男は「それでもいい。最期の日だし」と達成感にでも満ちたような顔で言った。
「最期の日って、何が」嫌な感じがして、私はきいた。
「なんだかさ、もう生きるの諦めろって言われてる気がしてさ。毎日怖かったんだ……」
 男は話した。
「この世のどこかに、僕が幸せになれる場所があると信じてた。待ってたらいつかそうなれると信じてた。誰かが、何かが、僕を救ってくれると信じてた。アイドルと一緒に、いや一緒じゃなくても、僕は笑って、この世の数パーセントしかない幸せな場所で数分でも、笑顔で過ごせるような気がしてたんだ。全部嘘だった」
 何を言ってるんだ、と思った。
 この世のどこかに、幸せになれる場所があると信じてた?
 それは私も同じだった。でも私は、決して待つなんてしなかった。誰かが救ってくれる、なんて、ありえないに決まっている。自分で奪い取りに行かなきゃいけない。綺麗な方法で。
 それなのにこの男は、待っていたんだ。馬鹿みたいに何かを信じて。
「だからさ、もう全部あきらめようと思って、最後の晩餐的にさ、誰かの笑顔がみたいなって思ってサヤカを家に呼んだんだよ。でもごめん、変なお願いだった。笑って、なんて言われて、こんな世の中でさ、笑えるわけないよな。僕なんかの前でさ、笑えるわけないよな」
 私は、この男は死のうとしているんだ、とわかった。目が一緒だった。あのときの母と。でもなんだか違った。
 こいつの死ぬ理由は軽すぎる。誰にも助けてもらえないから死ぬ、って、自分で何もしないうちから何を言ってるんだろう。
「……なにそれ。きもちわる」
 すると、男は笑いはじめた。私が目の前にいることを忘れたみたいに、腹を抱えて、窒息しそうなほど笑った。私が鮭のおにぎりと、ツナマヨのおにぎりを食べる隣で。烏龍茶をすする隣で。靴下をぬぐ隣で、しびれた足を揉む隣で、こんなに笑うやつが、まだこの世に残っているんだと思った。何をきいても、何をみても、わたしが少し動くだけでも笑う。頭がおかしくなってしまったのかと思った。私がその辺の掃除をはじめて、棚の中まで覗いて雑巾で拭いて、そこで見つけたチョコを食べたら男が、食うのかよ、とか言いながら、もうだめだ、死んじゃう、とか言いながら、空に向かって一生笑った。あまりにも笑いすぎるから、だんだん私も馬鹿らしくなってきて、いつのまにか一緒に笑っていた。
「九時半だよ」
 いきなり、透き通った声で言う。ぞくりとする。
「帰らない」
「なんで? もうお金ないよ」
「やだ。帰らない。帰りたくない」
 家に帰っても誰もいない。この男と一緒にいたせいで、久しぶりに孤独を感じてしまった。久しぶりに感じた孤独は、痛い程冷たかった。一人でこんな感情に、耐えられる訳がないと思った。
「家に何か嫌なことでもあるの? 大丈夫だよ、まだ高校生だろ。ちゃんと学校いけばなんとかなるよ」
 ふと、男の目を見た。死んだ母と同じ目つきをしていた。この男は、この後死ぬのだと思った。
「そうじゃない!」
 私は立ち上がって、自分を制御できないまま、口が動くままに叫んだ。
「いっしょにバイト先みつけたらいいじゃん。コロナおさまったらさ、いっしょにそのアイドルのライブいこうよ。いい笑顔なんでしょ」
 男はポカンとして私を見ている。泣けてきて、止まらない涙を拭いながら、心の中が溢れてしまうのを見送る。
「世の中そんなわるいことばっかりじゃないよ。スマホなくても、笑いにくらい私がきてあげるよ。やだよ、私、まだ信じてたいよ。世の中って、そんなにつらいことばっかりで、救われないの?」
 はじめて、自分の本音が聞こえた気がした。自分の口から出た言葉が、自分自身でも知らなかった、私がずっと抱えていた恐怖だったのだと知った。
 男はしばらく、私を見つめていた。
 そして「サヤカとはもう会わないよ」と言う。
「やだ!」と叫んだ。このまま一人にされたら、私だって死んでしまうと思った。
「じゃあ今度は友達も一緒に連れてきてよ」
 男が言う。なぜか清々しい顔で笑っている。
「コロナの流行がおさまったらでいいからさ。男でも女でも二人でも三人でもいいから、 僕が犯罪を疑われないように、なるべく多く連れてきて、僕の家を遊び場にでも使ってよ。その時までには家賃と水道代と光熱費と、お菓子代くらいは払えるようにしておくからさ」
 そこで気づいた。この男も孤独だったのだ。そして、この男には、私は孤独じゃないように見えているのだとわかった。
 この男にとっては、多くの人に囲まれ、笑って過ごしている幸福な人間が、生きる糧になる。そして、本当は孤独な私が今、この男にとってそういう幸福な存在に見えている。
だからあえてきいた。
「また来てもいい?」
 男は、あっ、と気がついたように私を見た。
「いいけど、もう絶対、売春まがいのことはするなよ。サヤカもちゃんとバイトみつけてから、家にこいよな」
 私は笑った。この期に及んで、注意までされてしまった。
 そして私は男に、自宅から歩いて行ける距離の知らない家の前まで送ってもらった。ここが私の家だと、綺麗な一軒家の前で自慢した。そして指切りをして、約束をした。この世界の何処かに、絶望に染まり切った人間がいると証明するような人生にならないように。また会えたら、それなりに楽しくやっている人間もいると証明できるように。
 でももう会わない、と決めた。
 あの男にとって私が、幸せに生きる女の子「サヤカ」であるように、私もまた、サヤカを希望にそれなりに楽しく生き続けるあの男を、アイドルとして、生きる糧にすると決めたから。

─了─

サヤカ1→

  https://note.com/chiyomatsu/n/n335c97556d04






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