短編小説『サヤカ1』2020.8.9


 半年前まで彼女だった子がくれた紅茶のティーバッグを、一リットルのお湯で薄めて飲んでいた。うっすらと赤みをおびた色が、透明なポットに窮屈そうに捕まえられて浮かぶ茶葉の塊から、帯のようにちらちら沈んでゆく。そのちらちらの合間から、魚眼レンズでのぞいたようにゆがんだ十万円の束が見える。現金給付をうけてから一ヶ月、とうとう手を出さなければならなくなった。この一ヶ月間、僕はなにもしないで過ごした。
 新型コロナウイルスが流行り、緊急事態宣言が出された直後、五年間勤め上げたバイト先から暇を出された。二年生になったときに大学を中退してからずっと、一日のうち休憩を含めて九時間を週に五回、一種類しか味のないラーメン屋で休むことなくバイトを続けていたから、このままずっと同じ日々が続くような気がしていた。おかげで僕は何も考えず、バンド活動をしたり、小説を書いてみたりして、賞をとって一発逆転する未来を妄想したりして、寝ては、日々を浪費した。本当はわかっていた。こんな日々は長く続かないと。それでも僕は心の何処かで、誰かに、何かに救われる自分の姿を信じていた。僕のバイト先のラーメン屋は、新型コロナウイルスの影響で閉店せざるを得なくなった。
 仰向けに倒れ、寝返りを打てば、窓の外の夕日が見えた。電線に阻まれて黒い線の入った夕日は、僕の暇を潰してくれた。あの電線から家のコンセントへ繋げば、スマートフォンを充電できるかもしれない。切ってやろうか、と手を伸ばすが、寝ているままでは届くはずもない。充電に本気で興味があるわけでもなかった。馬鹿らしくて悔しくなる。スマホの回線は昨日、料金の未払いで止められた。伸ばした僕の手に、掴めるものは何もない。
 机の上の十万円は、家賃と水道代と光熱費を支払ってしまえば一ヶ月分の食費すら残らない。生き延びるためにスマートフォンを捨てる選択をした。バイト先の店長とバイト先の大学生としか連絡をとりあわない、通信機器として最低限の仕事しかさせてもらえないかわいそうな僕のスマートフォン。けれど実は僕の生命線だった、と、今更になって気付く。
 そういえばまいにち夕飯をとるときに、あるアイドルグループの動画を見ていた。ファンというほどでもない。ライブに行ったこともグッズを買ったこともない。ただ見ていただけ。同じことを繰り返すだけの生活がむなしいから、なんとなく耳や目がさびしいから、楽しそうに笑うアイドルを部屋のなかに呼んで、ずっと歌って踊らせていた。笑顔の意味なんて考えなかった。誰のための笑顔だとか、何のための笑顔だとか、笑顔の裏の心がどうだとか。
 家賃と水道代と光熱費を払うために、立ち上がる。節約のために電気を消した部屋は、夕日で染まっている。本当ならここに、アイドルが歌って踊っているはずだった。僕が仕事をなくさなければ。
 もう七月になるというのに、玄関のドアを開ければ外は肌寒い。遠くでカラスの鳴き声がしている。だるい足でコンビニに向かう。ATMで家賃を振り込んで、夕飯のおにぎりを一つ持ってレジへ行き、一緒に光熱費と水道代を支払えば、今日やることは全て終わりだ。そこまで考えて、立ち止まった。なんとなく終わってしまう気がしたからだ。今日だけじゃなくて、僕の全てが。
 このままどうして生きていけるだろう。お金がない。実家の親には嫌われていて、帰ることもできない。今月が終わったら野宿だろうか? 職を探す気力もない。何故か、あのバイト生活に戻りたくない自分がいた。バイト先へ行き、早く時間よ過ぎろと何度も時計を確認し、僕と同じように毎日バイト先にくる食事客と一緒に、同じ生活を繰り返すだけのゲームのNPCの集まりのようなあの空間が、もう恐怖の対象でしかなかった。嫌だと思ったことはないのに、このまま続けばいいとさえ、あのバイト生活に対して思っていたはずなのに、生活を思い出す僕の手は震えていた。
 十万円を握ったまま、立ちすくんだ。コンビニはもう目の前にあって、自動ドアが開くたびに、中から音楽が聞こえてくる。いつもよりもなんとなく、音がごちゃごちゃしている。ふと耳をすませると、自動ドアとは違う方向からニュースが流れてきていた。それは店の横に座っていた制服をきた女子のスマホから聞こえていた。中学生くらいに見えるその女子が顔を上げて、僕のことをじっと見る。何のつもりかと思えば、右手で三本の指を立てる。
 女子中学生の三本の指。意味がわからずその場で見おろす。やがて僕をにらみつけた女子中学生は、左手で人差し指を立てる。薄い唇がうごく。
 い、ち。
「いち」がなにかと思えば、右手を唇の下にもってきて、さ、ん、と動かす。「いち」と「さん」。僕は気づいた。もしかして一時間、三万円じゃないかと。
 首を横に振ると、女子中学生は右手の指を二本にした。二万円。この子も新型コロナウイルスの流行で、僕と同じように職を失ったのかもしれない。一度に一万円の値下げ、まったく大胆だ。けれど元の値段設定が高すぎると思う。少々可愛い顔をしているとはいえ、一時間二万円は高いのではないか。ずっと必要最低限のお金しか稼いでこなかった僕には性を買った経験がないので想像でしかなかったが、高いと思った。
 指を二本にしても反応を変えない僕を、女子中学生は睨みつけた。フリーターのくせに、ブサイクのくせに、頭が悪いくせに、そういう具合の目つきだった。何も成し遂げてこなかったくせに。コンビニの店内から、広告と一緒によく知らないアイドルの声が聞こえてくる。そうだ、僕はアイドルがいなくて困っていた。女子中学生のスマホからは相変わらずニュースが流れている。「今日の新型コロナウイルスの感染者は、二百……」。僕は手に持っている封筒を見た。十万円が入っている封筒。これを払いおわったら、死んでしまうような気がしていた。
 僕は「二万?」と小声で聞いた。間違っていたら嫌だったからだ。二十万だったり、売春じゃなかったりしたら、大恥をかいてしまう。女子中学生はきょとんとして、首を振った。「二千」。
「二千で、何してくれんの」
「なんでも。一時間以上構ってくれたらそれで」
 女子中学生は幼児みたいに柔らかそうなクリーム色の髪をポタリと肩からおとして、僕を見上げて期待した目でまばたきした。僕はアイドルが家に欲しかった。今日で何もかも終わってしまうなら、何か新しいことをしてみたかった。だから、コンビニの店内に入った。
 ATMで、家賃の七万円を振り込む。こんな良い家に住むんじゃなかった。そう思いながら、おにぎりの棚へ歩く。ツナマヨ、鮭、梅、こんぶの四つを手に持って、カゴに入れる。二リットルの烏龍茶をカゴにいれて、レジへ向かう。
 光熱費とガス代と水道代と、おにぎりと烏龍茶で、合わせて2万円弱を支払った。なんでこんなに高いのだろう。スマホの使い過ぎか、風呂の入り過ぎか。バイトに行かなくなってから暇潰しに、深夜までなんとなく起きてみたり、シャワーを長い時間浴びてみたりしていた。節約しようと思いながら、節約するほどの気力がなかった。レジ袋を持って、自動ドアを出る。
 入り口で座り込んでいる女子中学生に話しかける。
「二千って税抜き?」
 女子中学生が答える。
「じゃあ、税抜き」
「四時間な」僕は言う。
「なにさせる気なのか、先にきいていい? 逃げないから」
 女子中学生は、警戒した様子で僕をみた。この変態、とでも言いたげな様子だ。自分で売ってきたくせに。僕が怖いらしい。
「家についてから話す」
 アイドルになってほしい、なんて、外で言うわけにはいかなかった。

 自宅に着くと、僕は廊下の電気を景気良くつけた。普段なら節約してつけないところだ。女子中学生に名前をきいたら、しばらく考えてから「サヤカ」と名乗る。ほぼ間違いなく偽名だろう。
 六畳間の足おりテーブルの上に、コンビニのレジ袋を置く。「座って」と促せば、サヤカは大人しく足おりテーブルの前に座る。時計は午後五時半を示している。終わりは九時半。中学生にはちょうどいい時間だろう。
 さて、と僕が声を出せば、サヤカはぴくりと体を反応させた。僕はつられて驚いて、次に言おうとしていた言葉を喉に詰まらせてしまった。サヤカがじり、と音を立てて足を動かす。制服はまだ新しい様子で、チェックのスカートには綺麗な折り目がついている。
「さて」
 もう一度僕はそう言って、レジ袋から烏龍茶を取り出した。サヤカは俯いていた。僕は立ち上がって、キッチンへ向かう。棚からグラスを二つ取り出して、足おりテーブルまで持っていく。
「烏龍茶のむ?」
 サヤカはじっとグラスを見つめている。
 二リットルペットボトルの蓋をあけると、パキ、と未開封特有の音がした。ポクポクポク、とグラスに注ぐ。自分のグラスにも烏龍茶を注いでから、おにぎり四つをテーブルの上に広げた。
「二つ選んでいいよ」
 すると、サヤカが僕を睨みつけた。理由がわからなかったが、サヤカの目が潤んでいることに気がつくと不思議と体が緊張した。
 サヤカは僕の腕を掴んで、そっと胸の上に導いた。はずだけれど、そこに柔らかさはなかった。何もないのに何を感じろというのだろう。何もない、というありのままの感想を言ったら怒られそうなので、そっと手を引く。
「変態。何が楽しいの」
 サヤカは涙を流しながら言う。僕の顔が笑っていたのか、何か別のことか。「楽しくはないけど」と僕が言うと、サヤカは怖い顔になる。
「じゃあなんなの。なにさせる気。信用させて、そのあとひどいことするのが好きなの」
「なんでそうなるの。僕にそんな勇気があるように見えるの」
 僕の言葉に、サヤカは困った表情になる。
 やっぱり勇気があるようには見えないのだ、と思った。だからこんな事態になってしまった。職も探さず、ぼうっとして、日々を浪費して、挙句のはてには見知らぬ女子中学生を自宅に引き入れた。最後の日だからという理由で。
「なんか頼んでよ。雑用とか」
 サヤカが立ち上がる。
「サヤカって中学で何部?」
「高校生なんだけど」
「嘘だろ」
「帰宅部。バイトしてたけどなくなったからここにいるの」
 サヤカは手首についていた髪ゴムを使って、肩より少し長い柔らかそうな髪を一本に束ねた。きょろきょろと周りを見回す。
「掃除用具とかないの」
「それよりやってほしいことがある」
 僕も立ち上がると、サヤカは身構える。一歩後ろにひいたので、一歩近づくと、サヤカは「なによ」ともう一歩後ろにさがった。
「笑って」
「は?」
 サヤカは眉をひそめて、明らかに僕を見下した目になってから、もう一歩後ろにさがった。
「意味わかんないんだけど」
「笑顔がみたい」
「きもちわるい」
 僕は「それでもいい」とちゃんと言い切った。「最期の日だし」
「最期の日って、何が」サヤカは一歩僕に近づいて、きいた。
「なんだかさ、もう生きるの諦めろって言われてる気がしてさ。毎日怖かったんだ。いつ、誰にそう言われるのか、怖かった。同じ毎日の繰り返しだからずっと続くような気がして、それも怖くてさ。結局、僕は生きるのも死ぬのも怖かったんだ。唯一、明日に向かおうと思えるのは、笑っちゃうけど、アイドルの笑顔を見てるときだけだったんだ。ファンでもなんでもなかったけど、この世のどこかにまだ笑ってる人がいるんだって思ったら、なんだか、いつか僕にもそんな日がくるような気がしてさ。こないんだ。こないってわかってるのに、アイドルが笑ってるのをみてたら、僕のところにもそんな日がくると思ったんだ。この世のどこかに、僕が幸せになれる場所があると信じてた。待ってたらいつかそうなれると信じてた。誰かが、何かが、僕を救ってくれると信じてた。アイドルと一緒に、いや一緒じゃなくても、僕は笑って、この世の数パーセントしかない幸せな場所で数分でも、笑顔で過ごせるような気がしてたんだ。全部嘘だった」
 言い切って、僕は思わず、自分の言葉に笑った。
「だからさ、もう全部あきらめようと思って、最後の晩餐的にさ、誰かの笑顔がみたいなって思ってサヤカを家に呼んだんだよ。でもごめん、変なお願いだった。笑って、なんて言われて、こんな世の中でさ、笑えるわけないよな。僕なんかの前でさ、笑えるわけないよな」
 するとサヤカが、言った。
「……なにそれ。きもちわる」
 僕は、腹の底から笑いがこみ上げてくるのを感じた。
 それから僕は、ずっと笑い続けた。サヤカが鮭のおにぎりと、ツナマヨのおにぎりを食べる隣で。烏龍茶をすする隣で。靴下をぬぐ隣で、しびれたらしい足を揉む隣で。僕は、何がおもしろいのかさっぱりわからないまま、苦しくて泣きそうになるくらい笑っていた。地球がひっくり返って、僕の感覚をひっくり返してしまったようだった。何を思い出しても灰色だった生活、唯一色を変えていく窓の外の空、スマホの充電をさせてくれない電線、なにを見たって思い出したって笑えた。サヤカは九時半になるまでずっと、笑う僕にきもちわるいと言い続け、キッチンの棚の中をあさってチョコレートを見つけて食べ、そのうち困り顔で笑うようになって、最後には一緒に笑っていた。
「九時半だよ」
 僕がそう告げれば、サヤカは首を振った。
「帰らない」
「なんで? もうお金ないよ」
 やっと笑いがおさまって、どこに落ちるか、電車に飛び込むか、包丁で自分を刺しでもするか、僕は考えていた。その前にサヤカを無事に家まで送り届けなければならない、と自転車の鍵を探す。
「やだ。帰らない。帰りたくない」
「家に何か嫌なことでもあるの? 大丈夫だよ、まだ高校生だろ。ちゃんと学校いけばなんとかなるよ」
「そうじゃない!」
 サヤカはその場で立ち上がった。足おりテーブルに乗っていたグラスの中の烏龍茶が、少しだけ揺れた。
「いっしょにバイト先みつけたらいいじゃん。コロナおさまったらさ、いっしょにそのアイドルのライブいこうよ。いい笑顔なんでしょ」
 サヤカは感傷に浸りきった様子で泣いて、目をこすって真っ赤にして、僕に言った。
「世の中そんなわるいことばっかりじゃないよ。スマホなくても、笑いにくらい私がきてあげるよ。やだよ、私、まだ信じてたいよ。世の中って、そんなにつらいことばっかりで、救われないの?」
 そのとき僕は気付いた。僕だって高校生の時は、当たり前に幸せになれると信じていた。サヤカもそうなのだ。
 僕が今死んだら、笑顔のアイドルがこの世に笑顔でいられる場所があるのを証明するように、絶望し切って何も見えなくなる人間がいると、サヤカに証明してしまう。僕がみた絶望が、高校生のサヤカに感染する。ウイルスみたいに。
「サヤカとはもう会わないよ。二人で会うと犯罪を疑われるだろ」
 僕が言うと、サヤカは顔を上げて「やだ!」と言った。僕はまた笑えてきて、笑いながら言った。
「じゃあ今度は友達も一緒に連れてきてよ。コロナの流行がおさまったらでいいからさ。男でも女でも二人でも三人でもいいから、僕が犯罪を疑われないように、なるべく多く連れてきて、僕の家を遊び場にでも使ってよ。その時までには家賃と水道代と光熱費と、お菓子代くらいは払えるようにしておくからさ」
 言ってしまってから、僕は後悔した。人生なんてそんなに楽しくないし、生き長らえたくなんかないのに、死ねなくなってしまった。しかも僕の部屋が高校生たちのたまり場になるかもしれないなんて、最悪だ。うるさそうだし、たのしそうにキラキラされたら、僕はまた死にたくなるかもしれない。
「また来てもいい?」
 サヤカがきく。僕はもう一つ気付いて、忠告した。
「いいけど、もう絶対、売春まがいのことはするなよ。サヤカもちゃんとバイトみつけてから、家にこいよな」
 そうして僕は自転車で、サヤカを家まで送り届けた。離れるとき、サヤカと、小指を結んで約束した。この世界の何処かに、絶望に染まり切った人間がいると証明するような人生にならないように。また会えたら、それなりに楽しくやっている人間もいると証明できるように。また会おうね、と小指を結んだ。面倒臭いことになった。まずは職をさがさなければならない。けれど、そんなに悪い気分じゃなかった。


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https://note.com/chiyomatsu/n/n85a1daa1e82b




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