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正解よりも、学んだことが使えたかを大切にすると思考させることができる


ある日、「旅人算」を解いていた娘が、答えは出るけれど説明ができないという状況に陥っていました。式の1つひとつで、何のために何を求めている式なのかという意識が薄いので理解度が低くなります。
そのまま放置しておくと、「正解が出ればいい」という価値観になっていき、応用問題には対応できなくなる可能性があります。

嫌な傾向だな、と感じて、そのときから、しばらくがっつり指導をするようにしました。「がっつり指導」と言ってもマンツーマンでつきっきりではないんですが。

わからない場合、ミスした場合、解いているとき、に気になること、などを問いかけて、コミュニケーションするくらいの意味です。

過程を見ないと適切な指導はできない

「結果」をほめると、逆効果であることは、キャロル・ドゥエックさんの本にも研究成果が書いてあります。

「結果」を無視して、「過程」や「努力」を見て、ほめるのは難易度が高いほめ方です。「過程」とか「努力」は見えないことが多く、「結果」は見える場合がほとんどだからです。
見えないものを見るには、技術と経験が必要です。だから、一朝一夕ではできません。訓練しないと。

だけど、中学受験の算数は、「過程」をほめやすいです。

旅人算なら、
「AくんとBさんの速度をたす理由は?」
「C町とD町の距離を、速度の合計で割る理由は?」
と、途中の計算をする理由が明確で、「過程」が見やすいからです。

「過程」が見えるものは、指導がしやすいので、どこまでは説明できるほどの理解で、どこからがパターンに落として計算しているかの判別がしやすいのです。
そのレベルまで個別に指導してくれることは集団塾では望めません。個別指導であっても、どこまでやってくれるのかは疑問です。手間がかかるし、技術が必要だから。

自己分析できている子は、自分がどこからわからなくなっているかがわかるので、考え方を修正できます。自己分析せずに授業を聞いても、解き方を知るだけになるから伸びにくくなるでしょう。

小さい頃から過程を大切にする学習をする

ある塾では、
「小4のうちは、パターンを覚えて解けたらいい」
と言ってしまっているようですが、問題だと思います。
そんなこと言うから、受験業界が批判の的になるんです。
思考系の問題が増えていくという時代に、どう対応していくんだろうと疑問に感じます。

典型題のうちに頭使わずに解いている子が、難問で頭を使えるようになるわけがない。もっといえば、簡単な計算をする段階から頭を使って解き、過程を大切にする習慣をつけた方があとで伸びます。

たとえば、「14+29=」というくり上がりのある計算問題。
子どもが「313」という答えを書いていたときに、学校の先生をふくめ個別指導でも、
「4と9をたして、13の1をくり上げて・・・」
と説明します。

でも、この子がどこまで理解できて、どこからわからなくなっているかというと、くり上げた「1」の処理です。
だから、「313」の「1」についてだけ、
「この1はどうしたらいい?」
ってきくと、「あ、たすんだ」って自分で考えて理解できます。教えられた場合より気づかされた場合の方が、頭を使って自分で解いた感覚が残ります。前者は「やらされ」感が増し、後者は「自発性」が増します。

この小さな積み重ねをどれだけ積んだかが、「自分の頭で考える」姿勢になる過程です。一足飛びにはいきません。

過程を大切にする学習は、指導次第で、たし算でもできるので、中学受験の算数ではどの単元でもできます。思考をして解いた経験をしておかないと、難問に対応するのはかなりきつくなるでしょう。

学んだことを使う力を身につける

前述のたし算は、それまでに14+9=とか14+25=などの問題はできるようになった後に出てくる問題です。自分が知っている計算の技術を使うと、十分自分で答えの出せる問題です。

つまり、14+29=がすぐにできないのは、「計算力がない」という課題ではなく、「学んだことを使えていない」という課題になります。後者の課題の方が、乗り越えるのは時間がかかり、壁も高いです。

「学んだことを使える力」を身につけるヒントを以下の本からもらいます。

徹底して自分で掴む教育を進めるために、あえて「不便、不自由、不親切」という三つのキーワードを教育指針にしています。

大事なのは、「不便、不自由、不親切」の塩梅です。
あまりに不便すぎたり、不親切すぎると、心は折れます。一人一人に合わせて、自分で克服して、掴むことができるレベルの「不便、不自由、不親切」を調整してあげるのがよいでしょう。

いい先生とは

今の教育は、あまりにも至れり尽くせりで、結果的にみんなをどんどん受け身にしています。

「面倒見がいい」=「管理される」、つまり、自立心を阻んでいる場合があります。

懇切丁寧に教えているつもりが、学習意欲を奪っているケースがあります。「先生」と言われる人たちの動機が、「教えるのが好き」ということがよくあります。「教えすぎパターン」に陥るおそれがあると感じます。

子どもたちは「教えられる」のは好きではありません。「自分で掴む」ことが好きなんです。でも、「子どもが自分で掴む姿を見るのが好き」という動機で先生になる人は、あまり聞いたことがないです。

だから、「不便、不自由、不親切」をアジャストしようなんて発想にならないんですね。

不思議なのですが、人というのは与えられれば与えられるほど、贅沢病に陥って、与えてもらったことに感謝するのではなく、与えてもらっていないわずかなことに不平不満をもらします。

たとえ人生のどこかのタイミングで、教えるのが抜群にうまいカリスマ先生と出会ったとします。そのときはモチベーションが上がっても、カリスマ先生に教えてもらえるのは一時期だけです。

カリスマ先生がいなくなったら、他の人に学ぶか自分で学ぶしかない。その時に、教え方が下手だから、と先生の責任にして学びを止めてしまって困るのは自分です。

教え方がうまい先生がいい先生ではなく、自分で学ぶ力をつけてくれる先生がいい先生という価値観にする方がいいでしょう。

先生は黒子で、「〜先生のおかげで」と感じさせない、「私ががんばったからできた」と言われる先生の方が、本当の伯楽なんじゃないかと思っています。
世の中には出ないでしょうけどね。

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