第一話「四月一日事件」
バラガキ【茨搔き】[名・形動]
イバラのように触れると怪我をするような乱暴な人物、あるいはイバラに進んで突っ込んでいくような向こう見ずな人物、などの意味で用いられた語。新撰組の副長、土方歳三の幼少期のあだ名としても知られる。
(実用日本語表現辞典より)
・・・ ・・・
公務員に向いていないかもしれない。
そう感じたのは入庁後、3か月が経つ頃だったと思います。
何をするにも「確認」だとか「前例」だとか「規則」だとか「先輩に聞いて」など自分の判断や考えを差しはさむことを許されない一年目。
ましてや最初の所属は庶務の担当でしたから現場仕事も任されず、ただただ椅子に座って事務をこなすだけの日々。
だんだんとやる気が腐っていき、3年が経つ頃にはすっかりヤサグレて新人の頃のキラキラしたものは鳴りを潜めてしまいました。
そんな中、3月の中旬に課長の控える部屋に呼び出しを受けます。
「まぁ・・・色々あると思うけど頑張ってね。意外と坂竹くんに合ってる職場だと思うよ。」
課長から口頭で伝えられた異動先。それは噂に聞いていた「福祉事務所」でした。
・意外に驚かなかった自分
辞令を受けた私に対し、周りの職員たちはニヤニヤしていました。
”うわぁ若いのにご愁傷様。俺が行かなくてよかったぜ。”
”普段の行いが行いだからちょうどいいんじゃないの。”
”何年もつかな。ぷぷぷ・・・”
口には出しませんが顔にはそう書いてありました。(多分)
福祉事務所という部署があることは新人ながらも何となく知っていました。業務の関係でその前を通りかかった際に、ひどい悪臭のする人や、職員と口論している様子、窓口でごった返している様子などを目にしていたので他の職場とは明らかに異質な雰囲気を醸し出しているのだけは分かっていました。
私の同期も男女問わず何人か福祉事務所に配属されており業務が大変であることを飲み会などで聞いたこともありました。(当時はコロナなんて無かったですし。)
普通だったらガックリ肩を落として言葉少なく業務に戻るのでしょうが、もともと私は「変わり者」と呼ばれることに一種のアイデンティティを感じる人間でしたし、むしろ人と同じような動きはしたくないと思い続けて人生を駆け抜けてきたので、今回の辞令については自分でも驚くほど冷静に受け入れていました。
いずれは避けては通れない職場なのだから今のうちに経験してしまおう。
ショムニ的な業務で腐っていた自分の中で密かに闘志が芽生え始めていました。
それからは逆に仕事にも張りが出て、「あと少しでこのルーティン的な業務ともおさらばだからやり残したことがないようにしよう」と考えていました。
「もっと早くその意気で仕事してほしかったけどね。」と小言を言われたような記憶もあります。
そうこうしているうちに、異動先の係長が私に内線をくれました。
一応職場研修があるとはいえ、年度が変わった瞬間から仕事をこなさないといけないので簡単に業務の内容を説明してくれるというのです。
新しい係長は優しそうではありますが、よれよれな服を着ていてやや疲れた雰囲気で、最初に慰めの言葉をかけてくれました。
大変だ、と言われると「私なら大丈夫っすよ」という謎の万能感が芽生えてしまうお調子者ですし、上司と相談することはあれど自分のペースで仕事ができるよ、という言葉はかなり私にとって魅力的でした。
今までは雁字搦めでしたからね。
ただ一つ気になったのは、私が説明を受けている間、その異動先の係ではほとんど職員同士の会話がなく、むしろ「俺に話しかけるな」と言わんばかりの雰囲気が漂っていたことでした。
みんな自分の仕事に集中しているのかな?
そんな風に前向きに解釈したのは私がまだまだ社会人として未熟だったからでしょう。
・はじめての引っ越し
さて、社会人になると日が経つのがあっという間でして、いつの間にか年度末となっていました。
役所に入ってそこまで長い年月が経っていないこともあり、自分の持ち物も少なく、小さい台車一つで十分移動ができました。
ただ、異動先の係長から一つアドバイスを頂いていました。
「できる限り前の職場から文房具類をいっぱい貰っておいた方がいい。」
最初、「何を言っているんだこの係長は」と思いました。
社会人ですし、役所ですから文房具なんぞは新しい職場に十分にあるに決まっているではないかと思っていたからです。
事実、私が配属されていた職場では文房具は自由に使えましたし、不足がでればすぐに補充してくれていました。なので係長のアドバイスもそこそこに荷物も多くなってしまうのでほとんど従前の装備のまま異動先の机に向かいました。
勤務時間中に引っ越しはできないので、閉庁時間の後に少し残業する形で移動します。そこかしこに異動する職員たちがガタガタ台車を転がしている光景が広がります。
前の職場では残業は割と当たり前で、閉庁と同時に帰宅する職員はほとんどいませんでした。
しかし福祉事務所では閉庁して半時もしていないのに既にガラン堂でした。係にぽつぽつと残っている先輩職員がいるくらいでその人たちも間もなく帰ろうとしている様な雰囲気でした。
歓迎の雰囲気でもなく、一人ポツンと新しい机に文房具類をしまい、特に先輩方に挨拶することもなく役所をあとにました。
さて次の日になり新年度が始まります。
いつもより10分ほど早く出社し自席について業務の開始を待ちます。ようやく先輩職員と挨拶を交わすのですが、私のいた区では係員が10人ほどいて一日では顔と名前が一致しませんでした。
前の職場が5人くらいだったので「多いなぁ」と感じました。
朝礼が始まり、かる~く異動者の挨拶をした後はすごすごと自席に戻りみんな業務を始めていました。
福祉事務所では丁目や番地ごとに担当を受け持っており、たとえば〇〇3丁目に住んでいる人が保護の申請や相談に来た場合はそこの担当職員が応対するというものです。
当然に地域ごとに特色が違うため、基本的には前任者から引き継ぎをうけることになり、私もその例にもれず引き継ぎを受ける予定でした。
・衝撃の面談室
私の周りではそれぞれ前任者から引き続きを受けている異動者や新人職員がいました。私も優しく引き継ぎを受けるだろうとお客様気分で構えていると先輩職員がちょいちょいと手招きしています。
「悪いんだけどさ、ちょっと立ち会って。」
?
研修も引継ぎも受けていないのに何を立ち会うことがあるのかさっぱり分からないまま先輩職員のいる面談室へと入りました。
そこには70歳くらいの男性が2名座っていました。
「あ、この人が今年度担当することになる坂竹さんです。よろしくお願いします。」
先輩職員は小慣れた様子でそう紹介すると、私も相手方も儀礼的に「あ、よろしくお願いします」と挨拶せざるを得ませんでした。
挨拶の際に軽く立ち上がったのでようやくわかったのですが、相手方の内一人は車椅子を使用している方でした。
そして面談室にいる4人全員が着席したときに先輩職員はこう事情を伝えてくれました。
車椅子の男性が私の担当する地域の保護受給者(以下「ケース」と呼ばせていただきます。)で、隣の方はそのお兄さんだそうです。
そして見ての通りそのケースは車椅子で介護が必要な状態なので北関東の介護施設にいました。
しかし何を思ったか、昨晩のうちに施設を脱走し、手持ち金も少なくまた終電も過ぎていたためヒッチハイクをしながらお兄さんのところに逃げ込んできたというのです。
そのお兄さんの方も年金が少なく自分一人で生活するのが精一杯で、年金をほとんど受給していない弟がずっと家にいると生計が成り立たないので一日でも早く別の施設を探して欲しい、という相談でした。
いやもう衝撃ですよ。
人生で遭遇したことのない出来事でしたからね。
「施設」「介護」「脱走」「ヒッチハイク」「入所」etc...
指が5つも折れて満貫確定です。
目の前で申し訳なさそうに座っているこのご老人をどうしたらよいのか全く分からない状況。
自分のペースで仕事だとか、自分の判断だとか、そんなちゃちなものでは解決できない問題が眼前に広がっているわけです。
幸いにしてそこは先輩職員が「何とかするから」と頼もしいんだか不穏なんだか分からない言葉を私に残し、いったんお二方には帰ってもらい、替わりの入所先などを先輩が探すことになりました。
・思えばこれが・・・
幸いにしてその車椅子のケースが速やかに入所できる施設が見つかりました。老人ホームの営業の方がわざわざ福祉事務所の窓口まで面談に伺い、条件が整ったためその施設の専用車で移送してもらいました。
「まぁ4年いたけどこんな事例は初めてだね。」
先輩職員はぽそっとそう呟きました。
福祉事務所ができて以来の超レア事例を異動初日の4月1日に経験したわけですから、すごいんだかすごくないんだか・・・。
とはいえ、私自身もこの時まではまったく分かっていなかったのですが、この「施設入所」という言葉は今後の6年間において私のケースワーカー業務におけるキーワードとなることになります。
でもそれが実感となるのはもっと後のこと。
異動初日はこの事件以外は特に何もなく穏やかに過ぎ去りました。
思えばこれが私の「福祉事務所6年戦争」の始まりでした。
第二話「初陣」へ続く
令和4年1月29日
坂竹央
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