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矢印と負う責任


久々のnote更新。
Twitterやブログは平常運転でしたが日々の雑事に忙殺されるとなかなか継続的にSNSを維持するのはむずかしいですね。怠惰な性格なものでして。

しかしその怠惰を打ち破らせるのはやはり我が師、川田十夢。

世界を揺るがすロシアの(というよりプーチンの)ウクライナ侵攻という危機を目にして心を痛める人はこの日本にも大勢いる。

そういう部分を我が師匠はテクノロジーで解決しようと本気でしている。ならば不祥の教え子も書かねばなりませんよ。

師匠が文化の力でなにをしようとしているのかを。

いままでは「笑い」がいちばん大切だった。一瞬でもいい。とにかく重いものを軽くしたかった。いまは重くのしかかる現実問題をしっかり受け止めて、笑えるようになるまでの拡張現実的な解決策を具体的に実装してゆきたい。
川田十夢「支援の矢印を可視化する。」より


拡張現実的であり現実的である。

noteの更新の終盤に書いてある川田十夢の言葉に川田十夢の成長を見ている。何様だよ、成長とかお前が言うなと思う向きもあるかもしれないが、川田十夢の責任の負い方はとてもタイトなものであった。

確実に十二分に自身で背負えるものしか背負うことをしない誠実があった。

責任には前後左右がある。前後左右に及ぶ責任までを背負える状況でしか手を挙げない。いままでそうやってきたと私は思っている。
自分の名前と顔を出してやっきた者の正しい姿である。

そして冒頭には政治的な牽制をするのに「思考停止」という言葉で語る人たちを捉えている。右も左も中道もなくもれなく一人称と主語が大きい人が語る内容には御用心。

もれなく責任は負わない人たちだ。ともするとロシアのプーチンを50000倍くらいに希釈した程度で思考回路自体はそう違わないかもしれないなと思わせる人が多いのでね、つまり独裁、いや独善的。

それに川田十夢が言う通り別に何も考えていないわけではないのである。
考えあぐねているのであって、祈りながら痛みを共有せんと、暖かい部屋にいることに自罰的感情を持ちながら、その自責的な感覚でさえ無責任だと自分をなじるのである。だから正気を保って毎日をすごせるのじゃないのか。

だからせめて寄付をするのである。お金は気持ちを代弁するものでもあるから。しかし確かにこと戦争である場合にウクライナ負けるな!と思って寄付したのに武器を買うための資金になったらたまんねぇなと思いながら。

戦争を終わらせて欲しいから昼ごはんの予算を削って寄付してるのに。
確実に人道的支援という意味で直接支援できないのだろうかと確かに思う。

川田十夢が書くように戦地だけではなく隣国に逃れた人たちのために必要な支援をしたい。国に残る人たちに医療物資支援をしたい。文化を継承し生活を再建するために戦後復興支援をしたい。

その行先が曖昧であることは誰にとってもよくないことだ。国内の災害に関しても収支の内訳を出してくれる団体にしか寄付したことはないが、うやむやな団体は数多い。テクノロジーの分散型台帳を利用すれば透明性が保たれるのではないかと思うのだが。

そういった背景を考えれば川田十夢が『支援の矢印を可視化する。』というのは実に現実的であり拡張現実的なのである。

つまり想像する余白がここにもある。現地の人にとって、また現地に思いを寄せる人とともに前に進むために何が必要なのかを具体的に考えることを川田十夢はその資質すべてを使ってやろうとしている。そこに微塵の嘘もまやかしもない。

重いものを軽くしてもらった経験のある人間である私は断言できる。勝手に勇気をもらったタイプの人間であるからこそわかる。
ましてやこのnoteの決意表明とも取れる言葉には真実の響きがある。川田十夢が発する文化の力を信じるのである。

武力ではなく、文化の力で問題を解決させたい。
川田十夢note「支援の矢印を可視化する。」より


遠く離れたこの国でひまわりを、跳躍を、ウクライナたまご(ピサンキの通称。)の持つ力を信じるのだ。

そして他国の文化を尊重できたら自国の文化も尊重できるようになる。他国の文化も自国の文化も尊重できないうちはまだまださ、文化的に。

でも川田十夢だけに文化の責任を負わせてはならないのは当然。私たちも文化の力を信じて文化の力を手にするのである。矢印と負う責任を明確にして。

(黒太文字は川田十夢のnote「支援の矢印を可視化する。」より引用)

※映画ひまわりのロケ地はウクライナ。あのひまわりの美しさを知ることも文化の力。

ちなみに私の川田十夢に特化したやんわり気の狂ったブログはこちらです。気が向いたらどうぞ。

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