「すごいよ☆」ありきで
ぴゅんぴゅん
風を切って走しれば楽しい
世界は楽しいであふれているよ
ちくわ(パグ3歳)のまいにちは、楽しいとおいしいであふれている。
愛であふれている。
ちくわは、自分が愛そのものであること、光そのものであることなんて、思ってもいないけど、それだということに疑いも、申し訳ないなんて気持ちもない。
おしみなく体現している存在なのだ。
わたしたちも、愛のかたまりだし、そのものらしい。
「らしい」って言ってる時点で、信じてないんかいっ!とツッコミが入りそうだけど、そこはやんわりと「らしい」と言っておこう。
断定する強い感じより、ふわりと言葉を置いておきたい。
それを心の奥というか、魂は知っているし、信じているのに、
目に見える現実が、「おっとなかなか大変だ」と思ってしまうので
(それも見ている現実は自分が作っているらしいけど)、
「どういうことですかっ!これっ!えっ!」と、うっかり宇宙にカチコに行きそうになる。
宇宙にとったら、「なんで~」といい迷惑だと思う。ごめんよ~。
そういう壮大な脳内ぐるぐるは、もうやめたい!
魂が知っていると言われたら、「そうか。それは仕方ない。ふむ」と半ばあきらめの境地で(やけくそとも言える)、
わたしたちは愛だ。おーっ!(空に向かって片手をあげつつ)
わたしたちは光だ。おーっ!
という事実を受け入れてみた。
その前提でいると、自分を傷つけたり、卑下したり、
心でぼこぼこにするのはやめておこうと思った。
そして、そうなんだったら
「なんかわからんけど、まかせてみてもいいかもしれない。だって結局宇宙なのか何かは守ってくれているんだろう。ふぅぅぅぅ(深呼吸)」
と、これまた半ばやけくそみたいな気持ちだけど、
「どうしたらいいものか」と頭を抱えるのをやめてみるかと思えている。今のところ。
もちろん!あれこれあるという環境は変わっていないけど、
わたしの心の目線は変わったような気がしている。
そして、ここからが書きたかったことなんだけど、(前置き長い)
わたしたちの源はすごいよ☆という大前提として、
その「すごいよ☆」がひとりひとり違った「すごいよ☆」があるということだ。
そして、その「すごいよ☆」が、生まれてからのあれやこれや、世間や親の価値観、思い込みというおなじみの重しに隠されて、見えなくなってしまったり、押しつぶしていたりするので、
「すごいよ☆」なんてない。わたしには絶対ない。
あの人はすごいけど、わたしにはない。という
お決まりのパターンに入ってしまうのだろうなぁ。
それがあるのが悪いことでもないけれど、
自分がどんな特性「すごいよ☆」があるのか、
そしてどういうときに、それを「そんなものありませんっ!ぷんっ」としてしまうのか、
知ってみるのもいいんじゃないかなと思う。
西洋やインドの占星術で星の配置を見てもらうことや、
数秘術や、
いろいろな方法が今の時代、触れる機会が増えてきて、
すこやかにやさしく、心を明るい方に導いてくれるセッションをしてくれる方もたくさんおられる。(紹介もできるよ!)
わたし自身は、ヨガやアーユルヴェーダを勉強していることもあって、体のことや心のことを、いつもヴァータ(風)、ピッタ(火)、カファ(水)のコップを心にイメージしてそのバランスを見ているのが好きでやっている。
完全ではないけれど、飲むものの温かさや、心の調子をはかって調整できることも多いし、自分とのミーティングをしているようで楽しい。
「わたし」という存在、魂の持ってる「すごいよ☆」を輝かせることを
あきらめずにいたい。
それはわたしだけではなくて、今この世界にいる誰もが持っている輝きなのだと思う。
脳内ぐるぐるという思考を使うなら、
ダメなところを見つけ続けることに使わずに、
今日のお昼ごはん何を食べたらいいかな?と胃と相談することや、
体を整えることを選んでいくことや、
秋のおいしいものを想像してうっとりすることや、
呼吸の甘さや、体の伸びやかさを感じることに使っていこう。
わたしが思っている、思い込んでいるわたしは、わたしのすべてではない。
自分自身を見る目をあたたかく。
そうありたい。
ちなみに、わたしは、人の「すごいよ☆」を見つけるのが得意だ!
それゆえ、人を褒めちぎるので、褒めちぎりすぎて逆にごめんよぅと思っている。
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