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名古屋大須商店街でスカジャンに憧れることしかできない大学生だった自分が「好き」を追いかけた先に見た景色の話

11月19日からスタートしたスカジャン展も12月25日の最終日に向かって折り返し地点を過ぎ、4回目の土日を迎えました。

テーラー東洋さんの圧倒的なコレクションや刺繍作家の方々の作品の数々により、ご来場者の皆さんの「想像以上だった」との感想をSNSで拝読しまた直接フィードバックしていただき大変喜ばしく思っています。一部ご鑑賞者の方々は展示室に私の名前を発見してくださったかも知れませんが、今回私は帰還兵向けのスーベニアコレクターとして主に第1展示室に所有品を30余点ご提供させていただいています。

スカジャン展はテーラー東洋さんや、現代の4人の作家の方々が主役だと思っていますので、私の関わらせていただいた内容については細かく発信はしてきませんでした。しかし、商店会館(ドブイタステーション)に私宛に訪ねてきてくださる方が何人かいらしたがお会いできなかったということが何回かありましたので、この場を借りて私自身の話やコレクションの説明をさせていただくことにしました。

スカジャンに憧れた学生時代

私は1981年4月名古屋市に生まれました。小学1年生-2年生の時代に画家であった父の留学に付き添い1年だけパリで過ごしましたが、その後神戸の大学院に進学するまでの21年間を名古屋で育ちました。そんな私とスカジャンとの出会いは大学生時代。中学・高校と私服の学校に通い大学になる頃にはファッションへのこだわりが強くなっていた私は、空前の古着ブームだったこともあり暇があれば名古屋の大須の古着屋に通って店員さんを質問攻めにして古着の知識を溜め込みました(その時通っていたお店GREATさんの内藤タイスケさんからものすごくたくさんのことを教えていただき、今でもずっと感謝しています)。その過程で自然とスカジャンへの憧れの気持ちも強くなりました。

当時青春をファションと共に過ごした方ならばご理解いただけると思いますが、我々のファションの中心にあったのは”「本物」以外は着たくない”、”「本物」だろうとよく知らずに着ているヤツはダサい”という価値観だったので、スカジャンにおいても中途半端な買い物はできないという思いから買うのを我慢しながら過ごしました。

その後心理学を研究するために神戸大学の大学院に進学し、社会人になって広告制作のクリエイティブディレクターになった後もずっとファッションを愛し続けてきたので、縁あって(山口百恵さんが好きで)2008年に横須賀に移り住んだ時に”スカジャンのデザインに関わりたい”と思ったのは自然な流れでした。そして紆余曲折を経て2018年にドブ板に事務所を構えたのをきっかけに大変光栄なことに晴れてスカジャン業界の末席に名を連ねさせていただくことになりました。(普段はスカジャンのデザインをするスカジャン絵師として活動しています。今回の展示では第2室から第3室の間の廊下に5点ほどデザインしたスカジャンを展示していただいています。)

デザインを担当したメタバーススカジャン

スカジャンの魅力をわかりやすく発信したい

横須賀に引っ越した時から気になっていたのは、スカジャンファンとしてずっと憧れてきた”スカジャンの聖地”にも関わらず、「横須賀に来ても現地でスカジャンを楽しむ方法がよくわからない」ということでした。市の広報物や市民の方の作るグッズなどにスカジャンぽいスカジャンではないイラストが使われていたり、そもそもスカジャンの街横須賀とは? のような発信が行われていなかったり、スカジャンに憧れ散らしてきた自分にとっては少し戸惑うような状況でした。ビジュアルやテキストとしてスカジャンが使われることは多いけれど、正直スカジャン愛があるひとたちからすると「響かない」内容だなぁと感じました。

少し話は逸れますが私はもともとアメリカンプロレスTシャツや、ぬいぐるみのコレクターとしては日本を代表するコレクターとして本や雑誌に登場したことのある超オタク人間です。つまらない自慢がしたいわけではなく、超オタク人間は、何かを「好き」であるエネルギーがひとをどれほど突き動かすか? ということを知っています。例えば私がアメプロTシャツの話をすれば異様な早口と熱量にアメプロに詳しいひとはもちろん、まったく興味のないひとまで目を輝かせて聞いてくれます(私がそう思っているだけかもしれませんが)。また、自分自身もそれまで関心を向けたことがなかった事柄にそのことを偏愛するひとの話を聞いて積極的に関わるようになったような体験が何度となくあります。「愛の反対は無関心」だと言われることがありますが、私は超オタク人間として、強い愛情があれば無関心な人々をも動かすことがあると信じています。

なので、私はスカジャンに関わり出した時に「横須賀がスカジャンをブランディングに活用するのであれば、まずはスカジャン好きに刺さる内容を発信することが、最終的にはスカジャンに興味がないひとを動かすことになる」と考えました。そこで、これまでドブ板のスカジャン界隈のルールを尊重しつつ業界にいる人間としてスカジャンの魅力を最大限発信していくことを自分の使命として活動をしていきました。もちろんやりすぎて、誰かに怒られることがあるかもしれません。しかし、失敗する勇気のある人間にしか新しい意味のあることはできないと考えて行動してきました。

オーダーで描き下ろしネームの入れられるTシャツ、スカジャンを着た猫のご当地キャラ「スカニャン」、スカジャン柄手ぬぐいで作ったマスク、神社でご祈祷したスカジャン、スカジャン柄のお守り、ドブ板通りのスカジャン柄フラッグ、スカジャン柄のスーツ、NFTスカジャンなど、毎月新しい企画を実現するつもりで様々なひとたちと一緒に思いつく限りの施策に取り組んできました。

そんな中で3年ほど前にスカジャンを紹介する大規模な企画展があるかもしれないという話を聞いたのです。(ここからやっと本題ですね、長文になってしまい申し訳ありません)

横須賀ならではのスカジャンの企画展とは?

スカジャンの企画展が行われるにあたって、自分のすべきことは何か? (もちろん企画における最大の課題は「どこからヴィンテージのコレクションを借りるのか?」ということですが、借りられなければそもそも展示を行うことができないので、私が考えるべきことではないと思いました。)私が考えたのは「果たしてスカジャンをたくさん飾ることだけで本当に横須賀らしい展示と言えるのか?」ということです。

ネットでテーラー東洋さんが開催されたスカジャン展示の記事を読んだことがありましたが、スカジャン好きであればどこに住んでいても、どこで行われている展示あっても行ってみたいと思うような素晴らしい内容でした。ヴィンテージのスカジャンが集まる展示会は魅力的です。でもそれは「ヴィンテージスカジャン」の魅力に惹かれているのであって、例えば東京駅でそのような展示を鑑賞したとしても「東京駅の魅力を感じた」という感想にはならないと思います。

しかし、横須賀市で「横須賀」の名を冠した「スカジャン(横須賀ジャンパー)」の展示を行うのであれば「なぜ横須賀でやるのか?」を考えなければいけません。そもそもスカジャンというのは、横須賀でだけ売られていたものではありませんし、諸説ありますが「全国で同時期に同じような土産品が売られ、その代表的な販売拠点だった横須賀の名を冠して”横須賀ジャンパー”と呼ばれるようになった」というのが客観性が高い成立背景だと思います。パリでエッフェル塔を模した土産品の展示会をやるのとは意味が違うのです。

もちろんスカジャンの魅力を知っていただくのはスカジャン界隈の人間としては大変うれしいことです。しかし、市内で展示をする以上は「横須賀の魅力」を感じてもらえるものであってほしいというのが、”ドブ板で”スカジャンの仕事をしている人間としての思いでした。そこで、私は戦後のドブ板のお店の方々がどんな思いでスーベニア(帰還兵向け記念品、お土産)・スカジャンを売るに至ったのか? ということを想像できるような資料を集め始めました。そのような時代背景を踏まえた後に鮮やかなスカジャンに触れていただくことで、ただ綺麗なだけではなくその華やかさの裏側にあった”今日を生きることに必死だった終戦直後の人々の命の輝き”を感じてもらえるのでは? と思ったからです。今回展示していただいているのは、誰に頼まれたわけでもなく勝手に蒐集を始めた3年間の成果です。私がスカジャン展を担当する学芸員さんとお会いしたのは蒐集を開始してから1年後、スカジャン展の開催日から2年と1日前の2020年11月18日のことでした。

スカジャン展第1室について

スカジャン展の第1室には戦後のドブ板の写真と、ドブ板や日本各地で売られていた米兵向けのお土産品(記念品)が展示してあり、この中で33点が私のコレクションです。また私の出展品としてはサイズの関係から第2室と第3室の間の廊下に展示されているピンク色のベッドカバーがあります。

横地コレクションの概要

私のコレクションは戦後すぐのスーベニアショップの方々やものづくりの方々の活動を知っていただくための資料として、スーベニアジャケット・スカジャンの世界への水先案内役として必要かつ十分な内容になるように、いくつかのまとまりに分かれて構成されています。具体的には以下のような群の集まりです。

  1. 沖縄のパラシュート生地を用いたスーベニア群

  2. 沖縄以外の地域のスカーフ群

  3. カスタムペイント自体を土産としたB4フライトバッグ群

  4. 1944年以前に土産品が作られた北アフリカ戦線(エジプト)+CBI戦線(東南アジア)の土産品群

  5. カスタム制服と中国と日本のウール製スーベニアジャケット群

  6. スーベニアピローケース(クッションカバー)群

  7. その他の戦後土産品群

これらはそれぞれ意図をもって蒐集したものですので、本稿では少しだけそれぞれの狙いもご説明させていただこうと思います。

1. 沖縄のパラシュート生地を用いたスーベニア群

長年横須賀では、地元の口伝として最初のスカジャンはパラシュート生地から作られたと言われてきました。しかしながら、実際にそのようなスカジャンに出会うことがないので、終戦直後の人々とパラシュート生地との関わりを知るべく集めたのがこの群です。第1展示室入り口付近中央の島の左側に陳列してあります。

パラシュート生地から作られたおもちゃのパラシュート

集めていくと(これはさまざま文献や報道で既知の事実ですが)米軍や日本軍の払い下げのパラシュート生地を使ったスーベニア作りは沖縄で盛んだったことがわかりました。また、パラシュート生地はかなり薄く、スカジャンの刺繍をほどこすための横振りミシンでの装飾は難しいように感じました。

今回の展示ではアメリカから買い戻した下着のようなもの(米軍の備品を示すNAのプリントがあります)、スカーフマフラーのようなもの、子ども用のおもちゃのパラシュートをご覧いただけます。米兵が恋人や家族のお土産にしたのだろうと思われます。どれもスカジャンと違いプロの仕事ではなさそうな手縫いの柄や、手描きのイラストが入っており、土産品としては非常に素朴な印象です。その場にある素材だけで土産品を作り今日の食糧を得ようとした人々のことを思うと、私はその柔らかな刺繍柄・筆致に壮絶な戦禍を生き延びた人々の声にならない痛みを感じずにはいれません。

2. 沖縄以外の地域のスカーフ群

沖縄のスーベニアの付近には沖縄以外の地域のスカーフ群が展示されています。生地として沖縄のものに近いものもあるので、横須賀でも米軍や日本軍の払い下げのパラシュート生地を加工していたのかもしれません。

横須賀土産のスカーフ

横須賀市に残っていたスカーフ類(市博物館所蔵)も反対面に展示されていますが、アメリカから買い戻したスカーフたちのイラストの見事さが際立っているかと思います。肖像画の描かれたスカーフにはいずれも1946の文字があります。つい去年まで命懸けで戦っていた米兵を接客した絵師さんたちの気持ちを考えながら、丁寧に描かれた顔を眺めると感慨深いものがあります。

3. カスタムペイント自体を土産としたB4フライトバッグ群

ここまで触れてきたように、最初期の帰還兵向けスーベニアにはペイント加工品が多くありました。その中でも代表的なのがB4フライトバッグと呼ばれる空軍のスーツケースに日本の風景やドッグタグのような個人情報などを精緻な図案をペイントしたものです。

ペイントされたB4フライトバッグ

ペイントのカスタム系土産品は空軍の兵士の所有物がほとんでですが、今回横須賀美術館での展示ということで執念で海軍の兵士の品も探し出したのでぜひ現物をご覧いただければと思います。

制服のカスタム文化に端を発するとされるスカジャン。もしかしたら、全てペイントで袖まで柄の入ったスーベニアジャケットが存在したかもしれないなどと考えるとワクワクしてくるのは私だけでしょうか?

4. 1944年以前に土産品が作られた北アフリカ戦線(エジプト)+CBI戦域(東南アジア)の土産品群

日本の戦後は1945年8月15日以降ですが、もちろん世界ではそれ以前に戦闘が終結した場所や、それ以前に帰国するためのスーベニアを買い求めた兵士たちがいます。1943年に終戦を迎えた北アフリカ戦線では世界に先立って第二次世界大戦のスーベニアが売られました。同じくCBI(China Burma India)戦域と呼ばれたエリアでも1943年頃から帰還兵向けスーベニアが販売されていました。第1展示室の一番突き当たりの左側のエリアにこれらの地域のスーベニアが2点展示されています。

エジプトのスーベニアにはSouvenir of Egypt・1944の文字と星条旗・錨・鷲(イーグル)が手縫いのチェーンステッチで描かれています。CBIのスーベニアにはCHINA BURMA INDIA・CBI 1945の文字とCBIのエンブレム・台湾の旗・星条旗・龍が手縫いで描かれています。初期の第二次世界大戦のスーベニアとして地名と年号が必須であったことが窺い知れます。また、その後のスカジャンにも通じる図案がすでに登場している点も興味深いです。

CBI戦域のスーベニアスカーフ

5. カスタム制服と中国と日本のウール製スーベニアジャケット群

海軍の制服のカスタム品は北アフリカ戦線とCBI戦域の土産品を挟み込む形で展示されています。2点あるカスタム制服はどちらも裏側に装飾が入れられています。制服というのは兵士の安全を守るために仕様が決まっているものなので、カスタムは許されなかったのでしょう。裏側の背中にチェーンステッチで鷲が描かれたものは、縫製の糸も虹色のものが使用されており、所有者の見えないお洒落への強いこだわりが感じられます。もう一点は袖の折り返し部分に定番の横長の刺繍ワッペンを縫い付けたものです。袖を捲り上げた時のみ装飾が現れるこちらのカスタム用ワッペンは現在でもドブ板で購入することが可能です。

裏地に鷲の刺繍が入った制服

スーベニアジャケットと呼ばれるものは複数ありますが、第二次世界大戦のスーベニアとして登場する最初期のものは1943年頃から登場するウールで作られたシャツ型のジャケットです。今回の展示では、最初期のものに近くかつ米軍のカスタムカルチャーの影響も受けているSHANGHAI CHINA 1945の文字が描かれたもの(袖の折り返し部分に刺繍ワッペンが縫い付けられています)、1946年のもの、1949年のものの3点を展示されていただいています。地名と年号と龍というスカーフと共通の型を守りつつ、年代を追うごとに柄の大きさや柄が入る箇所が充実していっているのをご体感いただけるかと思います。

SHANGHAI CHINA 1945の文字が描かれた中国のスーベニアジャケット

特に日本で同じようなタイプのスーベニアジャケットが登場して以降の1949年のものは日本の豪華な刺繍の影響を受けたのでは? と想像させてくれるような1枚になっています。1949の中国のジャケットの隣に1940年代の日本のスーベニアジャケットが展示されていますが、星条旗や鷲・龍というエジプト・CBIのスーベニアでも見られた意匠がファッション的な図案として昇華されていることを感じていただけると思います。

戦後日本で作られたスーベニアジャケット

6. スーベニアピローケース(クッションカバー)群

スーベニアピローケースは代表的な戦後のスーベニアアイテムです。別珍生地に刺繍やプリントで入れられた図案を取り囲むようにレースのリボンがあしらわれ、外周にはフリンジの装飾がほどこされています。第1展示室の奥の空間の中央の島には、テーラー東洋さんの貴重なピローケース・他の方のコレクションと共に私のコレクションを展示していただいています。

日本製スーベニアはクオリティの高さから、様々な地域のお土産として採用されたようで、日本土産と同じ仕様でカナダのナイアガラの滝、パナマ、カリブ海のキュラソー島のものなども作られています。特にキュラソー島のものは日本昔ばなしのような風景に「SOUVENIR OF CURACAO」と描かれているのが力技で大変味わい深い仕上がりです。また、1943年にエジプトで作られた土産品の敷物? とスーベニアピローケースの仕様が非常に似通っていることも特筆すべき点でしょう。

日本で作られたPANAMAの土産品

遠くエジプトの地から日本までスーベニアは繋がっていき、日本に暮らす人々の気質によって成熟されたスーベニアが日本製でありながら世界のスーベニアとなっていく、そんなモノづくりの浪漫が戦後スーベニアを眺めていると感じられる気がします。

7. その他の戦後土産品群

その他にも日本で作られた戦後スーベニアを何点か貸出しています。別珍に横振り刺繍・螺鈿風加工のフォトアルバムや、鮮やかなエナメルに日本地図の描かれたライターの仕様からは日本で高級品を買い求める米兵に向けた豪華そうな土産品を作るための創意工夫が感じ取れます(展示上中を見せることはできませんでしたが、実は当時の写真も挟まれています)。また、スカーフの横に展示されているライター付きシガーケースには、”Fleet Activities Yokosuka Japan Christmas 1948” のハンドグラインダーで彫ったであろう文字が刻まれています。その時々にどんなものが売れるのか臨機応変に対応したことが伝わってきます。また、第2室と第3室の間の廊下の奥には巨大な刺繍のピンク色のベッドカバーも展示されています。家で待つパートナーへのプレゼントだったのでしょうか? 綺麗な状態で保管されていたことから、勢いで購入したものの使用されることがなかったもしれません。(その他、ノルマンディー上陸作戦のお土産品をサテライト展示会場のドブイタステーションに展示中です。終戦直後のスーベニアがいかに素朴であったかを感じていただけると思います。)

横振り刺繍の入ったフォトアルバム

以上、ざっとご紹介してきましたが、今回のコレクションを通して戦後のドブ板・日本の人々がその時々のニーズに合わせて柔軟に強かにスーベニアを開発していったことを感じていただくことができればと思っております。

戦後のスーベニヤ(スーベニアショップ)さんは夜遅くまで営業していたと聞きます。私はいつも、夜のドブ板に飾られた絢爛豪華さを競うように米兵を引き寄せた土産品の姿を思う時、鮮やかな羽を纏って子孫を残していく南国の鳥たちを思い浮かべます。そんな戦後の人々の必死な思いがやがてスカジャンとして結実し、その後現在に至るまで世界で支持されるファッションアイテムを作り出すに至ったのだと考えると「PRIDE OF YOKOSUKA」(私はPRIDE OF JAPAN だと思っていますが)の謳い文句も大袈裟ではなく感じていただけるのではないでしょうか?

スカジャンに憧れていただけの私がたどり着いた夢の続き

私がスカジャンなるものと出逢って20年以上が経ちました。あの日名古屋の大須商店街の古着屋さんに掲げられたスカジャンに憧れていた自分は、結局41歳になった今もスカジャンに憧れたまま、テーラー東洋さんの圧倒的なコレクションを前に今日も横須賀美術館でため息をもらしています。ごく個人的な話ですが、今回テーラー東洋さんの企画統括・スカジャン研究家でスカジャン界のリビングレジェンド松山達朗さんと大須商店街のお話をさせてさせていただけたのは一生忘れることのできない特別な瞬間だったと思います松山さんは長年大須商店街でレコードショップを経営されていました。大須で始まった私のストーリーが遠く横須賀美術館でまた大須のご縁と出逢ったことに勝手に数奇な運命の巡り合わせを感じてしまいました。

私の本物のスカジャンを探し求める旅がどこに繋がっているかはわかりません。しかし、今回の展示に少しだけ関わらせていただいたことでご来場の方々が感じていただくことがちょっとでも増やせたのだとしたら大変幸甚です。

本稿執筆時でスカジャン展が始まって22日が経ちました。今日もこれから美術館に納品にいきますが、それで16日目の来場になります。これまでに展示も14回鑑賞してきました(今日で15回目)。その都度、見えてくるものが変わります。なので、私のスカジャン展の感想は最後の日までアップデートされることと思います。ひとつ言えることは、毎回鑑賞後美術館を出て眺める海がこれまでで最高の景色に感じるということです。

文末になりますが、今回私のような素人蒐集家のコレクションをスカジャン展に展示することをご快諾いただいたテーラー東洋さんに心から感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。

あわせて、現代を代表する刺繍作家として出展を引き受けてくださった大澤紀代美先生に感謝申し上げます。

また、展示の企画を行なってくださった横須賀美術館の学芸員の方々、職員の方々もありがとうございます。

スカジャン展にて、大澤紀代美先生(中央)と筆者(右)
横地 広海知(スカジャン絵師 / クリエイティブディレクター)
1981 名古屋出身
2006 神戸大学大学院文学部卒 専門は「思考心理学」の推論分野(指導教官がデザイン論の専門家だったためデザイン論についても学ぶ)
2008 6月 横須賀移住
2018 12月ドブ板に事務所を移しスカジャンのデザインにかかわり始める
記事投稿後、今日も元気に納品を行いました。


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