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【服部半蔵正成】忍者のイメージと実像

こんにちは。私は相変わらず「どうする家康」を観ています。
ようやく、半蔵や本多正信らが出てきましたね。
さて、その服部半蔵正成ですが以下のようなイメージを持っていました。

「忍者軍団の頭領」
「冷酷無比な性格」
「忍者としてよく出てこない?」

このような服部半蔵像を持ってらっしゃる方も多いのではないでしょうか?
そこで、今回は服部半蔵正成の実像をまとめてみました。

服部半蔵正成とは

初代服部半蔵保長は、家康の祖父清康、父広忠に仕えていました。
伊賀出身で忍者として活躍したとされています。
いわゆる服部半蔵は二代目半蔵の正成のことですね。
今回の「どうする家康」もこの二代目半蔵・正成になります。

この服部半蔵は、イメージとは違いますが、槍を持ち(時には鉄砲)武士としての顔が強いのです。
姉川の戦いなどで、一番槍の戦功を上げています。
同じく徳川十六神将の渡辺半蔵守綱も有名な武将ですがこちらは”槍半蔵”と呼ばれていました。
服部半蔵は、”鬼半蔵”とも呼ばれた武将です。
何か怖いイメージですね。武功第一の武将だったわけです。

なぜ伊賀忍者のように伝わっているのでしょうか?

いくつかの合戦において、伊賀忍者や甲賀忍者を使い、諜報活動・工作を行っていた記録が残されています。

有名な伊賀越えの活躍では、織田信長が本能寺で明智光秀に討たれると、家康は、少数の供と一緒に堺にいました。
家康は、堺から甲賀・伊賀・伊勢から三河に帰還するいわゆる”伊賀越え”を試みます。
道中半蔵は、甲賀・伊賀の土豪と交渉しつつ、この危機を乗り越え、半蔵自体は重傷を負うも、家康は無事帰還できたのです。
伊賀・甲賀の護衛に当たってくれた者をのち伊賀同心・甲賀同心・馬廻として徳川幕府は迎え入れました。
しかし、彼らは、服部半蔵配下でよりも、徳川配下であることを良しとしました。
何故なら、半蔵はほぼ三河の者であり、伊賀における服部の地位は低かったからです。
とはいえ、父保長からの伊賀衆・服部衆も指揮していたかと思われます。

服部半蔵の主な武勲

服部半蔵が上げた主な武勲を以下にまとめました。

  • 上ノ郷城では夜襲に成功し、盃と持槍を拝領

  • 三方ヶ原の戦いでも武功を立て、平安城長吉の槍など贈られ伊賀衆150人が預けられる

  • 小牧長久手の戦いでは、伊賀・甲賀者を指揮し、伊賀鉄砲隊で秀吉の軍勢を相手に奮闘

  • 北条氏制圧の小田原征伐では、鉄砲奉行として従軍し、首十八級をあげる

  • 小田原の陣の功により、伊賀同心200人を与えられ、8000石を領する

半蔵は、徐々に伊賀同心を統率する立場になっていきました。

半蔵は情けの人だったのか?

半蔵は、情の人だったのでしょうか。
忍者というと冷酷無比のイメージもありますね。
主君信康(家康の嫡子)自刃の際、介錯をする予定であった渋川四郎右衛門が出奔。
半蔵が介錯することとなったが泣き崩れてしまい、とうとう介錯しきれなかったという話です。
結局、天方通綱が信康を介錯しました。
家康は、「さすがの鬼も主君の子は斬れぬか」と言ったとのこと。
三河物語にこの詳細が載っています。

半蔵門の由来は服部半蔵か


東京(江戸)での半蔵の屋敷は、正確な場所は判明していません。
尾御門内にあったがその後赤坂御門内に住んだとの説があります。
半蔵門は、甲州街道の始まりであり、半蔵の家臣、伊賀同心の屋敷があったそうです。
江戸城の裏口に当たるため安全で強固な警備が必要だったのでしょうね。


半蔵門


まとめ


今回は、服部半蔵の「忍者のイメージと実像」について紹介しました。
半蔵は、鬼半蔵と呼ばれ、一番槍を取るなど武功が多かった武将です。
次第に、伊賀・甲賀のものを指揮する立場になっていきました。
伊賀越えで徳川に仕えることになった伊賀衆は、のちに半蔵配下となったが、伊賀衆自体はそれを不満にも思っていたとのこと。
また信康自刃の際には、介錯しきれぬ主君思いの武士でもありました。

私は、信康を介錯しきれなかった半蔵に心打たされました。

お読みいただきありがとうございます。また。

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