見出し画像

大切にしたいと素直に思える存在を大切にすればいい〜愛と犠牲の違い〜

我が子に熱が出て苦しそうにしていれば、変わってあげたいと思う人もいるでしょうし、大切な存在が危機に瀕していれば身を投げ打ってでもどうにかしたいと思う人もいるかもしれません。

この存在のためなら自分の人生の時間が多少削られてしまったとしても無駄だとは思わない、それで無事にいてくれるなら本望だと素直に本気で思える場合もあるかもしれない。

紛れもなく「愛」ですね。


もちろん変わってあげることは出来ませんし、人には必要な経験がありますから、いくら大切な存在だからといって何でも助けていればそれは干渉し過ぎになります。やり過ぎは要注意です。

しかし「自分だけ」で生きられる人はいませんから
逆になんでも「自分で判断し、自分で生きられることが素晴らしい」と全く干渉しないのも「愛」とは呼べません。これは過剰自立という依存状態です。

ここのバランスが整っていれば、人は健やかな関係性を保てますし、人が健やかに育ちます。


大切な人に対して、関わり方は間違っていないだろうか、愛情は足りているのか、それともやり過ぎていないのかなど悩みは尽きないものですが、そうやって考えることそのものが「愛」ですから、大切な人との関係性で悩んでいる方は心配はありません。

その行為自体が愛です。
そうやって愛をもって満身創痍向き合ったことは後々、相手によい形で響きます。


ただ、そうやって考えたいとも思わない相手に対しても、私たちは我慢をしたり過剰に気を遣ったりすることがあります。

その相手のことで頭を悩ませるのも無駄だ、悩みたくないと感じていても
ついついその相手のことを考えてしまったり、相手の反応で自分をすり減らしてしまう。そんなことをしたいと思わないのに自分を抑えて相手を優先させてしまう。

これは犠牲です。


私たちは色々と頭で考えてしまいますが
誰かに対して〇〇してあげなくてはならないという考えが出てくる時点で
「自分が本当はどう思っているのか」の答えなのですね。

自分にとって大切な存在に対しては
ただただ「そうしたいからそうする」と身体は勝手に動きます。

自然に愛を向けたいと思う時、そこには「想い合えている実感」があるのかもしれません。無理に愛を向けようとする時、実感がないからそうするのかもしれません。

想い合えているのかどうかは魂が分かっています。

しかし愛を向けてくれていないと思う相手に対して
自ら縁を切ったり喧嘩をしたり、無下にする必要もありません。

心から愛をこちらに向けてくれていないであろうその相手から一歩引いて、自分を大切にする選択をすればよいのです。

働きかけていたその存在から一歩引く。
そうすると犠牲になっているその状態を終わらせてあげることが出来ます。

生きていれば、不毛な人間関係が起こってくることもあります。

そこに意識を向け過ぎず、素直に大切にしたいと思える人に自分の愛情を向けてあげれば、不毛なものはそのうち自然に切れたり離れたり、相手が変わったり関係性が変わっています。

何より誰より、自分を大切にしていれば
自ずと「大切にしたい相手(自分が愛を向けたい相手、自分にとって必要な相手)」が分かります。

いつもサポートや温かいメッセージをありがとうございます✨