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父を、見殺しにした話

正直、投稿するか悩みました。
こんなことまで書いてしまうのか。
こんなもの誰が読むんだ。
うっかり読んでしまった誰かに不愉快な思いをさせるだけじゃないのか。
でも、こういう現実が、人生が、ほんとうにある。
こんなものを、わたしは書かずにいられない。
知りたくない人は読まない方がいいでしょう。
わたしは、これをおのれに刻み込んで、死ぬまで生き続けます。


2020年夏、ある役所から手紙が届いた。
今わたしが住んでいる自治体からではなかった。
すぐには開封しなかった。
いつも通り夕飯をつくり息子と一緒に食べ、諸々の雑用を済ませた。
何かほかの可能性があるか、頭をめぐらせてみても何もない。
宿題を後回しにする子どもの気分だが、大人なので諦めて手紙の封を切る。

昨年12月下旬頃に、父が自宅アパートで亡くなった。
親族不在のため、警察から役所に依頼があり、火葬したのち、遺骨を預かっている。
保管の一定期間を過ぎると無縁仏として埋葬される。
ついては親族で話し合いのうえ連絡してほしい。
余白には、担当の方であろう手書きで
「いろいろなご事情がおありかと思いますが、もしお引取りが難しい場合でも、ご一報だけでもいただければ、ありがたく存じます」と添えてあった。

A4再生紙1枚で、10数年のあいだ断絶していた父の消息は知れた。

一度では理解できない新聞記事を読むように、短い文面を何度か読んだ。
文末には、妹にも同じ手紙を送ってあると書いてあった。
妹は隣接する他県に家族と住んでいる。昨日の今日ではまだ配達されていないだろう。
LINEしてみる。「〇〇役所から手紙届いた?」とだけ。
現実的で気の回る彼女なら、これだけである程度の察しはつくはずだ。
妹「届いてないけど何かあった?」
手紙の内容をかいつまんで記し、わたしが引取りに行く、週明け役所に連絡してみる、と返信した。
現実的で気の回る妹は、わたしが動転しているのも見抜いたはずだ。
お互い時間のあるときに、電話で話し合うことにした。

数日後の電話。
妹にも手紙が届き、それぞれで考えたことや疑問点や今後どうするかについて確認し、母に知らせるかどうかに話が及んだ。
両親はわたしたち姉妹が学生の頃に離婚しており、母は縁あって再婚して既に30年近くになる。
妹「お母さんはこういうとき具体的に動ける人じゃないから、何かのついでのときにでも話せばいいんじゃない?」
そうだった、母は感情と感覚だけで生きているような人で、実務的な事柄にきわめて疎い。
父との別居や離婚のときも、わたしが立ち回って話し合いをさせたり、手続きに付き添ったりしたのだった。
妹のあっけらかんと突き放したような言い草が、頼もしく愉快で大笑いしてしまった。
しばらく笑い続け、わたしは自分が泣いていることに気づいた。

10数年前に、わたしは夫を亡くしている。
正確には元夫だ。離婚して1年3ヶ月後に亡くなった。
父も夫も、わたしに縋ろうとした人たちだった。
その重さに耐えかねて、わたしは2人から離れた。
その2人ともが、死んでしまった。
わたしが、死なせてしまった。
妹は「それは違う」と何度も言ってくれた。そう言うしかなかっただろう。
長い電話を終え、洟をかんだ。
もう一度、手紙を見る。
そうか。12月に死んだのか。

2020年の1月から3月にかけて、わたしは「家族」がテーマの演劇ワークショップに参加していた。
老若男女さまざまな背景を持った参加者が、ワークショップを通して「家族」について考え、演劇を作って劇場の舞台で発表する。
わたしが参加したグループは、「家族の距離」にテーマを絞っていた。
物理的・心理的な距離と家族との関係性について、参加者それぞれのエピソードや意見や質問などがやり取りされ、身体を動かしたり、テキストを書いたり、小さなシーンを作ったり。
そうした中で自然に、父との断絶について話したり聞かれたりするようになっていった。

ある回で、ホットシーティングというワークを行なった。
家族の誰かへの手紙を書き、その手紙をほかの参加者が読み上げ、自分はその誰かのつもりになって聞く、その後、進行役やほかの参加者からの質問に対しても、その誰かとして答える、というもの。
わたしは「父として」、自分が父に宛てた手紙を聞いて、質問に答えることになった。
手紙が読まれているあいだは、これといった感情も湧かなかった。
何年も会っていない、まして決して良い感情は持てない相手だ。
どうにも居心地の悪い、腑に落ちない思いで「父として」座っていた。
いくつめかの質問で、「あなたは後悔していますか?」と訊かれたとき。
あの人はどうだったのだろう、どう答えるだろうと考えるより先に、突然マグマのように感情が湧き上がり、嗚咽してしまったのだ。
泣きながら、わたしは不思議でならなかった。
二度と会うまいと縁を切った、もう怒りも憎しみも通り越して、話の種くらいに思っていたはずの父。
あれは、わたしが「想像した」父の思い、ではなかった。
12月に死んでいた父は、あのとき、あの場にいたのだ。

本番の舞台で、わたしは「父との距離」というシーンを行うことになった。
生まれてから今までの、父とのエピソードを語りながら、動きでその当時の距離感を表す。
膝元にいた幼い日から、離れては戻りまた離れ、最後は「生きているか死んでいるか知らない」父への手紙を読んで終わる。
観劇は好きだが、演じ手としては学生時代にかじった程度である。
演出上の段取りを追うのに必死で、演じる・表現するという域には到底及ばない。
しかし不思議なことに、手紙を読む場面では、必ずと言っていいほど涙が込み上げるのだった。
その手紙の中で、わたしはこんな一文を書いていた。
「死んでいるとしたら、生きているよりも、きっと近くにいるのでしょう」

折からの新型コロナウイルスの状況を横目で見ながら、本番に向けて稽古を続けていたが、やはり発表会は中止となった。
舞台での本番は、観客不在で記録映像を撮影するために行われ、ひとまず形をつけてワークショップは終了した。
その映像の上映会が後日予定されていたが、劇場が臨時閉館となったため、それも延期されていた。
数ヶ月が経ち、ようやくこの夏、関係者と併せて一般向けにも上映されることが決まり、本番の映像を劇場で観ることと、苦楽を共にした仲間との再会を楽しみにしていた。

父の死を知らせる手紙が届いたのは、その上映会の前日だった。
小説やシナリオならば、都合が良過ぎると揶揄するところだ。
だが、事実である。
父が亡くなったその翌月から、3ヶ月ものあいだ、ワークショップで父とのことを考え続けていた。
それは今にして思えば「弔い」だった。
わたしは、導かれていたのだ。

父の遺骨は、引き取らないと決めた。
それには妹の現実的な指摘が大きかった。
「今うちらのどちらかが引き取ったとして、その後どうする?どうも出来ないでしょ?」
役所の担当者に問い合わせたところ、子が引き取れない場合は、きょうだいから甥姪へと、追ってほかの親族へ連絡するそうだ。
もともと関わりが薄かったこともあり、今どうなっているのかまったく見当もつかないが、7人きょうだいの末っ子だった父の田舎には、本家の墓があるかもしれない。
誰も引き取れず無縁仏になるとしても、きちんと埋葬していただけるのなら、その方がいいのではないか。
妹が言った。
「あなたが全部の責任を背負わなくてもいいんだからね」
「私も含め、結構非力なものです、人間は。だからいっぱいいろんなところに頼りましょう」

上映会の数日前、わたしは黒いワンピースを買った。
今まで、着こなせる自信がなくて、自分から黒を選ぶことはまずなかった。
ときどきふらりと立ち寄る店で、涼しげな素材とシンプルなデザインになんとなく惹かれ、試着してみると意外にしっくり馴染んだ。
黒も悪くないな、いい買い物だった、と満足していた。
上映会の日、わたしはそのワンピースを着た。
父が、そう望んだに違いなかった。

離した手は、もう二度とつかめなくなってしまった。
わたしは、離し続けるしかない。
ほんとうはとっくに知っていた。
わたしが手を離したら、いつかきっとこうなると。

父を見放したあの日、わたしは父を殺したのだ。

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