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脳腫瘍のお陰で手に入れた「幸せ」

皮肉な話、22歳の誕生日、命を脅かす病の診断を受けて初めて「生きたい」と思い始めたと思う。

中学2年生で精神科医に「うつ病」と診断された。
毎日死にたい。辛い。苦しい。

今となれば中流階級で生まれ育った11歳そこらの女の子にどうやってそこまでの苦しみが生まれたのか不思議に思う。でもあの苦しみは本物だった。可能な事なら本当に消えてしまいたかった。

幼いながら「自分にはこんなに辛いと苦しむ資格はないはずなのに」と罪悪感に苦しんでいたのを思い出す。
簡単に見える「理由」もなく苦しい。精神病の怖いところなんだろうと思う。

子供とは残酷なもので、何をしたら相手に一番苦痛を与えることができるかということを直感的に理解している気がする。

当時は勉強は出来た方で、いわゆる「ガリ勉隠キャ」という感じだったと思う。
いじめ、仲間はずれは当たり前。

大概の先生とも上手くいかず、いつでも大人は私にとても気をかけて可愛がってくれる人と私が手に負えないと感じる人と極端に分かれていた。
多分先生自身にも余程余裕がないと扱い難い子供だったんだと思う。

診断後は処方された薬を飲みながらなんとか崖っぷちでゆらゆらしながらも中学を卒業した。

高校に入った途端鬱で動けなかった数年が嘘のように活発になった。色々な委員会に立候補したり、部活を掛け持ちしたり、難しいクラスを受けまくったり。まるで本当に中の人が変わった様だった。

戸惑いながらも私も両親も「うつ病が治ったのかも?」と喜んだ。
でも上がり過ぎていた。明らかに「通常」を越して何かもっと雲行きが怪しい域に突っ走っていた。

高校2年生に入った頃に「躁鬱病(そう鬱病)」と診断された。
その頃にはもうすでに躁鬱病のトレードマークの習性の通り「落ちてきていた」。
落ち着いたことでホッとしたものの、また地獄の様な鬱が襲ってきた。

それから数年かけて薬を色々試し、「安定」していった。安定して高校を卒業。安定して大学に入学。安定。

でも安定とは怖いもので、ある意味死んでいるのと同じような感じがした。
楽しいことも、苦しいこともない。

薬が感情の「上」と「下」を削いでしまっている感覚。いつでも私は「微妙に鬱」な状態にいた。

死にたいとは思わないぐらいの微妙な鬱。
でも生きていたいとも思わないぐらいの微妙な鬱。

そんなふうに「安定」した生活を送っている反面、大学3年になった頃には体調が悪くなっているのにも気がついていた。
不眠症。食欲が無い。ご飯のことを考えると気持ち悪くなる。だるい。
色々症状はあったが、「また鬱かな。」と軽く考えてきた。

21歳の春、寮のバスルームで癲癇(てんかん)の発作を起こして倒れているところをルームメートが発見して救急車を呼んでくれた。
私は大学の講義に出るために洗面所でコンタクトを入れようとしているところを最後に気を失っていて、目覚めたのは救急隊員に酸素マスクをつけられようとしている時だった。

救急病院に運ばれて脳のスキャンは撮ってもらったものの、それだけでは診断出来ず、神経内科医に行くことを勧められた。
それから数ヶ月かけて何回も病院に通い色々なタイプのスキャンを行ってもらって22歳の誕生日に診断がやっと出た。

「脳動静脈奇形」(Cerebral Arteriovenous Malformation)

先生から診断を言い渡されても、家族全員「は?」しかなかった。
最終的に手術が終わって半年経つまで「なんだったのか」家族で誰1人としてちゃんと理解していなかったことが判明。なんとなく「脳動脈瘤(Brain Aneurysm)っぽいもの?」と考えていたのを覚えている。

その頃は英語でもネットに載っている資料が少なく、日本語となると壊滅的だった。言語の壁は怖い。

母が「もし脳動静脈奇形がどれだけ大変な病気だか理解していたら持ち堪えれなかったかもしれない。」と後から言っていたので、理解していなくて良かったのかもしれない。

専門的な話は難しいので、意訳すると「脳の中に出来た血管の腫瘍」だ。
この病気そのものは身体中血管があれば何処にでも出来る。私の場合は脳の中にあったわけだ。

医師から色々説明を受けたが、あまり希望が持てる内容では無かった。
私の若さからしてなんらかの対応を急がなければ確実に脳卒中を起こすであろう。

脳卒中の問題がなくても癲癇や体調不調、子供の頃からの偏頭痛、だるさなどが既に毎日の生活に支障をきたし始めていた。

「死にたかったらママが一緒に死んであげるよ。独りじゃないよ。」

我が身のように苦しんで私の通院をサポートしてくれていた母がある日口にした。疲れと心配と悲しみと母親としての苦しみからの一言。

「死んでもいいかな。どうせいつか死ぬんだったら。」一瞬そう思った。

中学2年生から精神病と診断されて薬で「安定」を保っている。もう10年近く薬を飲んで、楽しくも苦しくもない世界に生きていた。
こうやって死の直前に立ち、そして「消える」ことを子供の頃はどれだけ望んでいただろうか。

でも初めてその時は違った。
「生きたい。」
直感した。
胸が張り裂けそうだった。
「生きたい。死にたくない。生きたい。死にたくない。」

「私は生きたい。足掻きたい。まだ死にたくない。」

母親に断言し、2人で泣いた。

それから神経内科医の先生に治療選択の説明を受け、私は脳手術を受けることを決断した。先生に脳神経外科医を紹介してもらい、随分てこずった後アポイントメントを取るところまで漕ぎ着けた。

手術は半年後。大学4年生の冬休み。

休学を勧められたが、家にいて引きこもり生活を半年間続けても精神的にやっていける自信がなかったので周りに無理を言って大学に通った。

頑張ったが学期を通い通せなかった。
癲癇や薬の副作用で歩くこと、座っていることも難しくなり、寮から教室に行くことも難しくなってしまったのだ。

毎晩「明日目覚めないかもしれない」という恐怖と「目覚めなくても精一杯今日も頑張った」という安心感に包まれながら眠りについた。

自分の体の限界を悟った私は学期を2週間早く切り上げて脳手術を速めてもらった。

手術の前日は「今晩は私が私でいる最後の日かもしれない。」と思いながら眠りについた。

脳を切る手術。ということは、人格も性格も記憶も入っている場所を切ると言う事。手術がうまくいっても「私」が「私」として目を覚ますとは限らない。

12/07/2011。全国で「パール・ハーバー・デー」とニュースに流れる日、私は朝はやくから手術室に入った。

薬で眠りにつく間際「もう目を覚まさないかも」と思いながら眩しい照明がどんどんぼやけていくのを眺めていた。

「目を覚さなくても私は満足だ。」そう思った。

メスが脳に入る30分前だっただろう。

不安に包まれていたが、人生で一番「幸せ」だった瞬間かもしれない。

そして私は12時間後無事に目を覚ました。

どれだけの人が23歳で「幸せとはなんだろうか」という問いと共に眠りにつくだろうか。
どれだけの人が23歳で「今日が最後の日かもしれない。でも私は幸せだ。」と思えるだろうか。

「死」を見据えた時に初めて「生」への執着に気づく。
この気づきを大学生という若さで見つけられた事には感謝している。
脳手術の前も後も辛く過酷で血の滲む努力とともにリハビリした。
二度と繰り返したくない経験だし、誰にも経験してほしくない。
でも私は死への切符と引き換えに何かとても大事なものを手にした気がする。

その「何か」を模索する為に毎日「幸せとは何か。明日目が覚めないとわかっていても私はこの人生に満足しているか。」を自分に問う。

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