見出し画像

私たちって、いつだって「比較」しちゃう生き物だから。

「アラサー 人間関係 変化」
ネットで検索してみると、なんとまあ、溢れ出す情報が多いこと。同じことで悩んでいる人が多いのかなと、どこか安心感も感じてしまう自分がいる。

30代。
自分の人生に登場してくる人たちの変化がかなり大きくなってきた。古い付き合いの人もいれば、ここ数年でグンと濃厚なお付き合いに発展した人もいる。仕事がら、人との出会いが多く、新たな繋がりから、どんどん入れ替わりに様々な人と出会っていく。

ただどちらかというと人間関係は狭く深く、時間をかけて信頼を積み重ねていくタイプだからこそ、昔から一度仲良くなった人とは、ずっと関係性を維持する努力が、全然「苦」ではない方で。

仲間かそれ以外か、みたいなところがあるから、自分のなかで大事な「仲間」と感じた相手には生涯付き合っていくという、謎の覚悟を持っている。実は自分のこんな一面が、結構すきだったりもする。照 

そんなこんなで、お察しの通り学生時代からの友情をとても大切にするタイプの私だが、ここの所、その旧友との時間に以前のようなワクワク感や安心感を感じれなくなっているのだ。

これは、思いもがけない事件すぎて、向き合うたびに心が疲弊してしまっている。ただ、特定の誰かに対してこうだ、ああだ、という訳じゃないことは明言しておきたい。

社会人になりたての頃は、旧友との集まりがパワーチャージタイムになっていたことは事実。どんな悩みでもさらけ出せたし、その時々で、置かれている環境で起きたことや、溢れ出た感情を、何も考えずにただただシェアしていた。

当時付き合っていた彼氏との出来事や、眠れなくなるほどの悩み、職場での人間関係や、将来への希望、そして正体不明のどうしようもない不安。なーんにも隠す事なく、等身大のままを伝えられていた。

そんなありのままの事実や感情を、なぜだろう、突如アラサーになった途端、不思議と旧友へ話づらくなっている自分がいた。いや、もしかすると私だけでは無いのかもしれない。きっと友人たちも、この違和感を感じているかもしれない。

その理由を探して、この事象に対して自分なりに腹落ちしたかった。

私たちは大人になるにつれて、あらゆる種類の悩みに出会い、その度に自分で正解を探して選択をしていく。

その選択方法は、見事に千差万別で、それぞれの個性がジワジワと滲み出てくる。この繰り返しの中で、自然と生き方に違いが出てきたり、ライフステージにも変化が出てくるのかもしれない。

早くに子供を産む選択をした子
キャリアアップを最優先に選択している子
仕事を辞めて子育てに専念している子
結婚しない事を選択した子
離婚を選択した子

どの選択も、良いか悪いか、正解かどうかは本人たちにしか分からないはず。

でもね、人間の本能にある「比較する」習性から、どうやら皮肉にも私たちは自分と他者との選択に、自然と優劣をつけてしまう癖があるようだ。

「私の選択の方が、正解だ」「あの子の選択は、ちょっとやり過ぎじゃない?」みたいな。

どうして人間は「比較してしまうのか」と調べたことがある。そこに書いていたことは、

人間は他者と比較することで
自身の現状を理解し
「安心・安全」かどうかを
確かめているのだそう。

「あの人よりも、自分の選択の方が優れているから、私は安全だ。」
「あの人よりも、自分の選択は劣っている気がするから、危険だ。」

こんな風に、私たちは本能的に他者と比較をしながら、自分の現在地を感じて過ごしている。なんとも疲れる習性だろうか。。。そして、これって必要?とも。でも仕方がない、これは人間の特性だし、この習性があるからこそ、人類は他の動物と比較しながら、安心・安全を求めてこれまで進化を遂げられてきたのだと思う。

人間の習性を理解したいま、アラサー女性の友情間に生じるあの微妙な空気感を冷静に考えてみると

アラサーというのは、選択の連続の日々で、大きく他者との生き方に違いが出てくる世代で、その違いを知るたびに、私たちは他者と比較してしまって、安心か危険かを瞬時に嗅ぎ分けている。

そうか…だからか…

だからか!
私がみんなの前で、自分のあれこれを話さなくなってしまったのは、この優劣が起きてしまう瞬間を作りたくなかったから!そして、自分と他者との違いを知ることで、自分の危険度を知りたくなかったからか!!!

旧友との違和感の疑問が晴れた今、私ができること。

それは

つい「比較」してしまうことは人間の本能的習性だと理解した上で、

「選択して、生まれた結果の違い」に目を向けるのではなく

「選択して、進化した友人のこれから」に目を向けようと思う。

逆も然りで、私が新たな選択をした時は「これからの変化を見ててほしい」と。

そうすることで、

自分と他者との違いに執着する必要がなくなり、相手のこれからに目を向けて純粋に応援しようと思えたり

未知なる自分達の変化を期待しながら、次に会えることを楽しみにすることもできる。

もちろん、一番の理想は「違いを認め合えること」だけど、それを人に求めることは至難の業で、誰かの意思をコントロールすることなんてハードルが高すぎる。

でも自分の「在り方」や「捉え方」は、コントロールできる。

そう、自分がどう感じるかはコントロールできるのだ。これってすごく嬉しいことじゃない?得じゃない?私はこの習性にとっても感謝している。

これからも、きっとどこかで友人との違いを目の当たりにすることがあると思う。でも、そんな時は決して比較するんじゃなく

友人の変化や進化を、喜んで、祝福できる人でありたいと思う。

Hiroko







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?