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月刊雑食読書②「世界あっての私です」

月間…と言っておきながら、前回から丸っと2ヶ月あいてしまいました…
2.3月はいろいろ停滞気味だったなぁ…汗

本は読んでいたのだけどペースダウンしたので、4冊で雑食読書まとめます。

今回はこちらの4冊↓↓


ガラガラポンした結果、こんな感じです。
①やっぱり東洋的思想がしっくりくる
②究極の具体=自分の存在
③世界あっての自分

偏見もありますが、スピ系の考え方って東洋的だと思ってまして。
だから自分たちにはとても根付いている感覚なのではないかと思うのだけど、(何をもってスピと言うかはとりあえず置いとく…)
でも、その東洋的思想について、落合陽一氏が説明すると非常に納得。

〜西洋的思想の根底に流れるものは、個人が神を目指す、全能性に近づいていく思想です
〜東洋的思想とは、一言でいうと、自然です。日本人は、どこまで行っても自然の中にある同一生・均一性にひもづいています
〜我々には、西洋的な、依存なき個人に立脚する考え方は戦略的に向いていないのです。いくつものレイヤーやグループに別れて人生を重層的に生きているわけですから
<日本再興戦略>

意見を言えない、消極的なのが日本人として見られがちだし、
同調圧力があったり多様性を受け入れ難いとも思われがちだけど、
根本の性質もあるじゃないですか、日本人の。

東洋的思想は「自分が世界の中心」ではなくて、「世界の一部の自分」なんだなぁと思いました。

「世界」の「世」は一世、二世…など、過去・現在・未来を現し、
「界」は上下左右や東西南北を現す。
グローバルではなく、時間と空間で「世界」。

そんな時間と空間の中で、誰もが「重層的に生きている」し、
自分で選ぶとか、選ばない以前に、そういう世界あっての私、みたいな。

ヨガでも「世界は全て」で、自分に起こることは全て世界からのギフトだとも教わりました。

それっていわゆる「宇宙の采配」とかそいういのも含まれるのかもしれないけど(ちなみに1冊目はちょっと合わなくて、ヒットする言葉があまりなかった…)

だから置かれた環境(それも世界)に身を任せる「ムラ社会」がある程度心地よくて、人との関わりが人生を豊かにしてくれるということが伝わりやすいのではないかと思います。
そうじゃない人もいるのは重々承知だけど、これからは人間関係が大事になってくる時代と言われるしね。
やっぱり人と関わることは自然なことで、そんな自然な人間社会に生きることを、私はDNAレベルで望んでいるのだと思います。

でも、そんな自然は抽象度の高いものではないかと思っていて、
だからこそ自分の考えや行動は、具体的である必要があるのではないかと思います。(実際具体的であるかはさておき…汗)

抽象が一人歩きすると、意味のないものに「パターン」や「関係性」を見つけようとするバイアスがかかってしまいます。
<具体と抽象>

極論、世界=抽象的(本質的)、自分=具体的だとしたら、
(「オレか、オレ以外か」的なw)
「具体と抽象の往復が大事」だから、自分だけや、周り(世界)の影響だけで物事を捉えるのでなく、どちらの方向からも見て往復することが大切で、
そのバランスが良いと、とてもフラットに生きられるのではないかなぁと。

…と言いつつも、多分、そういう往復できる能力は、人間の能力として自然にあるもので(想像・創造・行動)、無意識にやってたりするのだけど、
関わる人や環境に広がりがなく、「世界」が狭くなってしまうと、往復の振れ幅は狭くなってしまうし、備わっていた能力が失われて行ってしまうのではなかろうか…

〜異文化交流と名付け、日常生活から離れたものと考えることで、本当の交流ではなくなるような気がする
〜普通に向き合って、普通に接する、人間同士の交流、自然体の接し方
<幸せに暮らす集落>

普通に向き合って、普通に人と交流して、普通に「世界」を生きる。

仕事も遊びも学校も地域社会も人間関係も、
全部あっての私なんだなぁと改めて思います。

〜生きることは案外素朴なもので、最後に残せるものは、接してきた人との間に作った空気にすぎない
<幸せに暮らす集落>

世界と自分を行ったり来たりしながら、日々感謝・日々精進だと改めて思う最近です。

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