自分の世界
僕がもともと持っている性質の1つと言わざるを得ないのだけど
昔から自分というものを知りたいという欲求が強い、芸術家を志している人は大抵がこの性質が強いのでは無いだろうか?
自分に向き合う、そういう場面が沢山ある
その1つが僕にとって絵画である
はたまた映画を見ることや、本を読むことである、昔からこれらは辞められない
友達の誘いを断ってまで僕はこういう一人の時間を持たないと自分を見失ってしまう、そういう面では僕はとてつもなく弱い人間なんだと思っている
僕にとってはこれは至極真っ当な事なのだけど、友達は不思議がって、少し不満に思ってだろうけどこう言われた事がある
「絵なんていつでもかけるじゃん」
「誘いを断ってまでやる事じゃ無いよ」
この時思ったのだ
「うるせえよ」笑
なぜか僕はやけにイライラしたのを覚えている
小さい男だよねまったく🤣
ここで本音を言うと僕はかなり寂しがり屋なのである(メンドクセー)
一人になりたいのに寂しがり屋なんてものが成立するのだろうか?
僕はどうしても絵を描きたいのだが、孤独になるのも嫌なのである、これはジレンマ
パラドックスとも言えるかな?
しかし何と言っても僕は絵を描かなければならないのである、こればっかりは譲れない
それなら、絵を描くとは僕にとってどう言う意味を持つのだろうか?
自分を保つため
自分を知るため
自分を壊すため
自分(一人)になるため
生きる歓び
情熱
そして、自分を守るためなのでは無いだろうか?
だからこそ、僕は孤独を感じるのだろう
もしかしたらこれが僕の悩みのタネになっているんじゃ無いだろうか?
絵を描いたところで誰もうんともすんとも言ってくれない、これは孤独感をより浮き立たせる
この孤独感というのは僕の記憶では小学生の頃から持っている
別に友達がいなかったわけでは無い
学校も休日もよく遊びに出ていたし
中学生の頃も夜中まで遊びまわっていたこともある
しかし何かの違和感はずっと感じていた
僕は幼稚園に入る前から絵が好きで描いてた
それがより顕著になったのは小学生の頃からである、クラスに一人はいる絵が上手いやつだった!よく絵を描いてと頼まれたのを思い出す、担任の先生に親が呼び出されて僕の絵について三者面談した事もあった
僕はうっすら自信というものを感じていたし、絵を描くぞという意思が生まれた時期でもある、僕の絵に大人が何人か集まって話しているのは当時の僕として随分誇らしい気持ちになっていた
それと同時に今思い出すとかなり頭のおかしい記憶も残っている
あれは小学三年生の頃である、教室の棚の上に赤い花をいけた花瓶が置いてあったのだが、下校途中友達と話している際にふと、花瓶が倒れた様な、そんな気がしたのだ、そう思い始めたら最後、どうしても確認したくなった、これで次の日登校した時に花瓶が本当に倒れていたらまるで自分が倒した様に感じてしまうと思ったのだ
僕は友達に忘れ物をしたと言って教室に戻ったのを覚えている、花瓶は倒れていなかった。笑
お父さんが死んでしまったのも同じ時期なのは偶然だろう
なぜかというと、お父さんが死んでしまう前からずっと僕は同じような感情をずっと抱いていた、お父さんの死をきっかけに僕は確かにより自分というものが何なのか?人間とは何なのか?人間はいつか死ぬのだ!と強く思う様になったのは確かだけれど、それはもともと僕が持っていた性質を改めて実感したというのに過ぎない。
記憶も随分良い加減なもんだから、今の僕が過去を振り返って意味を探しているに過ぎないと思う、これから先何年後かにはまた随分違ったものを考えていると思う
しかし根底にあるものはなかなか変えられない
形を変えてまた僕の前に立ち現われるだろう、僕が乗り越えない限りそうなんだ
乗り越えた後、何が来るかというと次のまた違った何かが来るんだと思う、人間が生きているのはそのためだと思う、それが無くなれば、仏教的に言えば解脱だが、生まれてきているとはきっとそういう事なんだな、輪廻というのはそういうものだろうと僕は考えている🙋♂️
輪廻せず死んで無になるなら、人間が生きている意味は何だろうか?そんなに虚しい事があってたまるかと思うのも僕の性質であると思う、少しでも自分の命を感慨深いものにするために、僕は絵筆を取っているとも言える
そのために必要な事は自分をまずは知る事にあると今では考えている
人間は生きなが死に向かっているから、潜在的に人間には死への恐怖がある
意識していなくても確実にある
だから保守に入るのではなく、命を使ってジリジリと詰めていこうと僕は思うたちの人間
絵画で人間の根源的なものを、この世界というものを、そしてそれに立ち向かう自分というものを探求していこうという感じだろうか
道を踏み外すと、つまり悪に染まると自我が暴走して本当に悲しい、いたたまれないニュースに登場することになってしまう、転げたら人間は堕ちるのが早い、そこに歯止めをかけるのは自分が今までしてきた善意の行動である
愛とも言えるかな?
それが無いとストーンといってしまう
自分とは何なのか?これに対して愛を持って探求していく事、そして自分と同じ様に全ての人が多かれ少なかれそういう事を無意識にでも行って生きている人間なんだという事を認識する必要を感じる、自分だけでは無いという事
何で自分だけ?
時代のせい
あいつのせい
これじゃー人生はまさに虚しいものになってしまうだろうね
色んな環境も確かに影響はあると思うけれど、その中で自分はどうするのか?と問われてると思えば情熱が湧いてくる
仕事でも何でも
じゃー自分はどうするのか?なるように任せるのもよし、流れに逆らってみるのもよし、とにかく冷静に今の自分を見つめる事が大事だと思う、それを友達と話してみるのも良いと思う
何でも良い、自分の心にしっかりとした土台を築いていくべきだ
僕は多分築城型の人間なんだろう👴
全ては一人で孤独に絵を描きながら僕が思った事だから、真に受ける必要はないです
みんなそれぞれの世界を持ってます
それが芸術ですからね
誤解されても困るからいっておくけれど
僕は無宗教です、自分の人生を通してただそう感じただけです
僕の絵にはそういう、この世界と自分を見る第三者的な視点から描いています
上手いとか、下手とか、売れるとか、売れないとか、そういうものとは一線を画します
ここが僕を画家としてなるべくしてなったと言わせる性質を感じます
まぁー世間的に言えば僕は画家と言えるのかと言えば言えないと思います、言ってしまえばただのフリーターです、飲食店で朝からガッツリシフトインのほーるすたっふのひとりにすぎませーーん😢
ここまで話してきた事を統合してもやはり孤独になるべくしてなっている感も否めませんね
友達がいても孤独は十分あり得る話です
インスタのフォロワー数が多くてもあり得る話です
結婚しててもあり得る話です
幸い僕は友達が居ますしけどね😂
さぁー自分がこれからどういう人間になっていくのかが楽しみでございます
今後ともよろしくです😝
新作載せておきます
「蹲る」です
蹲って
色濃く落とした影を
人間はまた拾って
立ち上がる
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