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パラサイトとジョーカーに見る喜劇性

程度問題はあれ、どんな国にも貧富の格差はある。日本も例外ではない。
この問題について映画でモチーフにしていたのがパラサイトとジョーカーだ。
この2作品を通じて韓国や米国といった先進国でも貧富の格差は生じていることが注目され、アカデミー賞でも紹介されることで、時代の雰囲気として定着した。経済学者ピケティによって示された考え方が大衆化したとも言えるだろう。

パラサイト、ジョーカーに共通するのは社会の格差が生まれる中で虐げられた弱者の目線からその怒りを描いていることだ。これは実際に同じような立場にある人には共感をもたらす一方で、富裕層や不自由のない生活を送る人々にとって後ろめたさを感じさせる。

また両映画には悲劇性と喜劇性が同居している。パラサイトでは最初は裕福な家庭に潜り込んでお金を稼げることに対する半地下の家族の姿が喜劇として描かれているのに対し、途中から裕福な家庭に見下されていることに対する疑問や怒りに変わり、悲劇へと転じていく。喜劇と思ってみていたものが徐々に悲劇に変わっていき、緊張感を増していく。
ジョーカーは仕事を首にされ、カウンセリングも財政上の理由で打ち切られ、行き場を失っていく過程の中で、やり場のない怒りが、狂気に変わっていく様を描いている。 悲劇でありながらその内容も主人公の狂気の中の幻覚であるかのように描くことで相対化し、シニカルな喜劇として成立させようとしている。  

また、両者とも強烈な印象として格差による社会の隔絶に関する葛藤や戸惑いを描くが、どう対処すべきかについての解は描き切っていないところにも共通性がある。そこは見る者に任されている。そこまで描かないことが、両作をエンターテイメントとして成立させているとも言えるだろう。解を描くことは、イデオロギーを示すことにつながることから、これを避けているようにも感じられる。
ただし、そのセンセーショナルな描写は、人々の心を十分に掻き立て、答えがないことが、しこりを残す。それがある意味の映画の余韻となっている。

最も皮肉なことは、この2作品がアカデミー賞という形でフィーチャーされることにより、その作品に関わる人の名声や所得をより裕福に押し上げる形になることだ。格差の問題をプレゼンテーションする映画もまた、その資本主義の仕組みの中で成り立っている。
アカデミー賞がこの2作品を取り上げたというコンテクストも含めて相対化するとそれもまた喜劇のように思われる。映画で低所得者の怒りを表現していた人が、本作を通じて、もしくは本作を演じる前から裕福な層に属するものだったという点を客観的に見ると皮肉に感じてしまう。

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