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推せば推すほど離れていくVtuberたち~キャラクター性の錯誤と自己解離性

「推し活」や「推し事」という言葉はどうやらジャニーズファン界隈から出てきた言葉らしい。

「Z世代は推し文化が主流だ」という人もいるが、自分は「推し事」という文化自体、正直あまり馴染めない。

SNSで話題に乗せられ「流行」のように好きな事に集中することを他人と会わせる必要があるのかと思うのだ。

これからはオタク経済が主流になる、などという掛け声によって、カルト宗教団体のような「貢ぐことが素晴らしい」というファンの熱量に便乗する考え方も好きになれない。

コンテンツホルダーが推し活している側をマーケットとしか見ておらず、人格を無視しているような気がするのだ。これは企業も個人でも変わりない。

これは前回の記事で述べたので良ければ見てほしい。

今や誰もが手軽に配信者側に立てるようになったが、推される側からすれば、殆どの声援はただの数字や文字からしか見えてこず、さらにSNS社会が一層人間関係の距離感をわかりにくくさせている。

だから画面の向こう側にある推しを好きになる気持ちは暴力的なものと表裏一体であるという危険性がわかりにくい。

距離感がバグりやすいSNSの推し事


リスナーと配信者の距離感は度々話題になるが、アイドル売りで見た目が二次元のVTuberは人間ではなくペットのように扱われやすい。

アクシア休止の一件も、演者からすれば「コメントされているお前(アクシア)は一体何者なんだ!」という葛藤が根底にあったのだろう。

皮肉にもそのVアバターのキャラクター性を偶像化してしまうのは推しを熱狂的に応援してくれている根強いファンである。

リスナーが応援すればするほどファンコミュニティが作られ、ブランディングの価値が上がるが、肝心の配信者は「そこにはいない」と置いてけぼりにされるということがおきる。

これはVtuberならではの文化なのかもしれないが、アニメ感覚で描かれる、vtuber同士のやり取りを創作した二次創作のファンアートも都合の悪い部分を覆い隠して、キャラクターを美化しすぎている気がする。

一方で、熱心なファンからは杞憂だ通報だと騒がれるが、皮肉にもアンスレ住人の方が熱狂的な囲いとは異なり、前世や中の人の裏アカまで演者の事情等を俯瞰的に見ている人が多いので、殆どがキャラクターに倒錯すること無く「推し依存」にならずに済んでいる。

特に成熟してない未成年達がキャラクタービジネスのメインターゲットになるので、ふとしたきっかけでそのギャップに気がついたとき多感な時期に辛い思いをすることになる。

芸術性やエンタメの部分を切り取ってしまえば、それは洗練なのだが、演者には演者の日常があり、彼ら彼女らからすればその人格を飛び越えた作品は全て破綻なのである。

この自己解離性はやがてアバター社会が迎える、社会的なテーマになるかもしれない。


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