挫折。努力。絶望。辿り着いた全国の舞台
〜 入学 〜
高校は和歌山県にある
初芝橋本高校の体育科に入学をした。
クラスは様々なスポーツに取り組む
47人の男子と女子2人の49人。
ゴリゴリのスポーツ男子で埋め尽くされた教室は
とにかく暑苦しかった。笑
高校生活といえば、カップルで仲良く登下校をする。そんな青春をイメージすると思うが
現実は、、、
日が昇る前に家を出て、20時〜21時に帰宅。
電車とバスを乗り継ぎ、
往復3時間30分の距離を通う
サッカー漬けの高校生活が始まった。
〜 1年生のやるべき事 〜
厳しい上下関係、グランド整備や用具の準備、管理を行う為に、挨拶や言葉遣い、先輩に対する態度や礼儀、1年生としてやるべき事を学んだ。
1年生のやるべき事で1番大変だった事は、
厳しい上下関係ではなく、グラウンド整備だった。
普段のグラウンド整備はさほど大変ではない。
大変だったのは土のグラウンドに雨が降り、水が溜まったり、泥濘んだグラウンドの時の整備だった。
そんな時は早朝〜夜遅くまで可能な時間を必死で、
グラウンド整備をする事になる。
なぜそこまで必死になるのか。
それはグラウンド状態が悪いと練習メニューが山道を走る事に変わるからだ。
スポンジを浸して水を吸い、
カラーコーンの中に絞る。
そしてその溜まった水を外に運ぶ。
水を全て取り除いた後は泥濘んだグラウンドを「2トン」の愛称で呼ばれる、グラウンドを均す為に使うトンボという道具を2本重ねで引っ張り整備していく。
何時間も続くこの作業は、夏は猛暑の中汗だくになり、冬は雪の中凍える。
この辛さをわかるのはやった人だけだろう。
人生において二度としたくない経験の一つである。
〜 初芝橋本名物 〜
1年生の始めの1ヶ月は、チームとは別メニューで基礎体力作りの期間になる。
初芝橋本高校には、様々な愛称で呼ばれる
自然環境を利用した伝統のTRメニューがあり、以下のメニューを1年生の始めと毎大会の1ヶ月前に1週間行う。
・橋玉(3kmの山道)×2〜3周
・綾の台(8kmの山道)
・綾玉(綾の台+橋玉)
・ロン坂(200m程の傾斜30度程)×10本〜
・山階段(645段の大小様々な階段)×6本〜
希望に満ち溢れて入学をした自分の心を、
このTRメニュー達が簡単に、
へし折ったのだった。
山の上にある高校は標高が高く、
人生で初めて走りの中で過呼吸にもなった。
中学時代の怪我の影響、1年のブランク(療養期間)が自分の基礎体力を大幅に低下させていた。
チームワースト1位…
どのメニューをしても、
帰ってくるのはいつも最下位だった。
〜 全国レベル 〜
そんな地獄の1ヶ月も過ぎ、
ようやくチームに合流する。
…全くと言っていい程通用しなかった。
特にフィジカル
(身体の強さ、スピード、体力)
においては散々であった。
技術というものはベースのフィジカルが、
ある程度なければ発揮する事はできない。
初芝橋本高校のサッカーは、
華麗なパス回しのサッカーではない。
フィジカルを使ったロングボールや
ロングラン、個の強さを使い、
泥臭く全国の舞台で戦う。
そんなチームにおいて、
自分のフィジカルは、
試合に出場できるレベルとは程遠かった。
実際に1年生の頃は、Bチームの大会である、
育成リーグにも出場出来なかった。
さらに1年生大会と呼ばれる
関西の高校の1年生だけが出場する大会で、
チームはベスト4に入るが
17人程しかいないメンバーの中で、
自分はほとんど出場する事が出来なかった。
正直、中学生までは
自分の実力には少し自信があった。
だが、全国レベルのチームの中での実力は
一番下だったのだ。
〜 努力 〜
一番下からレギュラーに這い上がる為には、
努力をするしかなかった。
課題は明確であり、
フィジカルのレベルを上げる事。
・骨を強くするTR
・身体操作のTR
・筋力TR
・体力TR
・神経系のTR
・自律神経系のTR
学校の休みの時間や電車の移動も
少しの時間があればTRをした。
1番時間を割いたのは体力を上げるTRだった。
週1日のOFFの月曜日。
1年生の頃は毎日山道へ走り出す。
妥協しそうになる自分の心を
何度も何度も励ました。
1秒でも早く走る。その事だけを考えていた。
2年生の頃からは
科学的なトレーニングを取り入れた。
ただガムシャラに走るだけでなく、
心臓を強くするTRと肺を強くするTRを
明確に分けてTRをした。
(希望があればまたnoteで詳しく紹介します。)
OFFという日を知らなかった高校3年間。
これが正しかったかどうかはわからない。
しかし、中学生の頃に遅れをとった時間を取り戻すにはこうするしかなかった。
結果3年生の終わりの頃には
チームで体力が1番になった。
弱みであった体力はこの時から今に至るまで自分の強さになっている。
ちなみに走りすぎた高校時代のあだ名は
ジョギングおじさんと呼ばれたのだった。笑
〜 自信から絶望へ 〜
効果が現れ始めたのは2年生の途中からだ。
フィジカルも少しずつ上がり、
体力においてもチームの中で真ん中くらいになっていた。
2年生ではBチームの育成リーグにも出場し、
自分のプレーを出せるようになり、
少しづつ自信がついてきた。
3年生になれば試合に出れるのではないか。
そう考えていた。
しかし甘かった...
3年生になり、
初めの県No.1を決める大会"新人戦"。
メンバーを外れた自分は3年生にも関わらず、
メガホンを持ちチームを応援していた。
本当に悔しかった。
メガホンを持ってるその場から今すぐにでも逃げたいと思った。
これまでは
努力すればプロになれると思っていた。
いや、自分になれると言い聞かせ、
現実から目を逸らしていたのかもしれない。
新人戦初戦を終えた帰りだった。
「プロになんてなれない…」
そう初めて本気で思い、絶望し、1人家の玄関でうずくまり大声で泣きわめいた。
〜 転機 〜
今だから思う。
もしこのままの状況なら
高校でサッカーを辞めていただろう。
しかし、転機が訪れる。
3年生の新人戦の後、
監督、コーチが全員変わったのだった。
素直にチャンスだと思った。
新しい監督、コーチに自分のプレーを全力でアピールした。
結果、、、
プリンスリーグ2部
(関西にある強豪校、ユースを合わせたリーグ戦)
の初戦でスタメンに選ばれる。
そこから3年生では
多くの試合に出場させてもらった。
3年生のインターハイは決勝でPKで負け、
全国大会出場を逃したものの、
プリンスリーグ2部では2位で1部昇格。
そして、最後の全国行きを賭けた大会、
高校サッカー選手権大会和歌山予選、、、
優勝。
人生初めての全国大会出場が決まったのだった。
本当に嬉しかった。
あの日みんなで歌った「勝利の歌」は
今でも鮮明に覚えている。
〜 全国大会 〜
全国大会に出場する前に、色々あった。
1ヶ月前の手首の骨折(手術しないと完治不可)
2週間前に怖い人達から恐喝される。笑
選手権直前、静岡合宿でスタメンを外れる。
奥田裕貴の人生、
目指していた全国の舞台に立つにはやはり色々と簡単ではなかった。笑
だからこそ、入場行進や東京の宿舎での事、
試合の事など、全国大会に参加する日々の事は
今でも色濃くハッキリと覚えている。
結果は1回戦に勝ち、2回戦で敗退。
出場時間は僅か5分。
しかし、試合後家族の元へ向かった時に、
「ここまで連れてきてくれてありがとう。
よく大変やった高校生活頑張ったね」と、
家族が涙を流しながらその言葉を言った時、
挫折し絶望した、とにかく苦しかった高校生活3年間が報われた気持ちになり、
最高の3年間の思い出に変わった瞬間だった。
もちろん家族の言葉だけではない。
苦楽を共した、素晴らしい高校の仲間達と最後までやり切れた事が幸せだった。
埼玉スタジアムでプレーしたあの5分を忘れない。
〜 大学の進路 〜
大学を卒業し、
プロになる為にも強豪校に行きたかった。
しかしインターハイの全国大会に出場なし。
選抜経験もなし。
スポーツ推薦での進学は絶望的だった。
だが実は高校3年間、
クラスで成績が1番だった。
"指定校推薦"
生活態度も悪くなかった為、
成績も相まってこの推薦を利用し、
選択肢を多く持つ事ができた。
これは、実は入学した当初から狙っていた事だった。
多くの方に相談をした。
プロになる為、そして将来の為にも、
①サッカーが全国トップレベルで毎年プロの選手を輩出してる。
②頭の良い大学で、環境、施設も整っている。
③実家を出て、甘い自分を独り立ちさせる。
上記の条件が整っている、
"明治大学"への進学を決意した。
学校での推薦の許可を得て、
明治大学の面接試験を受けて無事合格した。
明治大学体育会サッカー部に入部して、
スタメンを取り、活躍し、プロに入る。
そんな理想を抱き、明治大学に入学する。
しかし、現実は厳しく、サッカー部に入部すら出来ない可能性が出てくるのであった。
次回、練習参加から実力の差に絶望する、
明治大学時代へと続く。
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