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デジタルデータが思い出の形を変えていく

デジタル迷宮で迷子になりまして 第6話

YouTubeで、懐かしいテレビ番組を観ることがある。版権をクリアしているとは思えないが、結構な点数がアップされている。また、NetflixやAmazonプライム・ビデオでも、懐かしい映画やアニメがズラリと並んでいる。

特にオンデマンドの動画サービスが登場してから、映像作品の視聴スタイルは変わってきた。好きな作品や何度も観たい映画はDVDを購入して入手していたが、オンデマンドサービスのおかげで“買うほどでもないけど気になっていた作品”を手軽に観られるようになった。子どものころの記憶の片隅に残っている昔のアニメや特撮などは、その最たるものだ。

そんな思い出の映像をいざ観てみると、「あれ、こんな作品だったっけ…」と感じることがある。記憶に残っていたシーンを何十年かぶりに観ると、印象が違っているのだ。面白いと思っていたものがつまらなかったり、逆に今観るとすごい映像だったりする。もちろん当時とは価値感も違うし経験も異なる。印象が変わるのは当たり前だが、何十年か経って、突然思い出が塗り替えられる体験をすることになるのだ。だいたいは「そういえばそうだった」という感想なのだが、何だか気持ちは満たされない。

多少ぼんやりした記憶の中だからこそ、生き生きとしていた思い出もあるだろう。映像に限らず、デジタル化に伴って、こんな風に思い出が塗り替えられる場面が増えたように思う。

幼い頃の記憶というものは、鮮烈なものはしっかりと覚えているが、それ以外の他愛ないシーンは、実は両親から話を聞いたり、アルバムの古い写真を見て定期的に思い出したりしているうちに定着したものが多い。一方で、今では確証もない記憶は、それはそれで懐かしい思い出として残っている。記憶の濃さの比重は、そんな風に証拠の残り具合にも左右される。逆に言えば、そこにこそ、時々思い出す“懐かしい思い出”の余地があったように思う。

われわれは、社会のデジタル化とともに過ごしてきた世代だ。そのため、人生のビジュアルの記録には差がある。フィルムカメラから始まり、デジカメが登場して、メディアやフォーマットの仕様を変えながらもデジタルでの記録が一般的になった。ケータイの「写メ」は流行ったが、性能が低く、保存の状況やフォーマットもバラバラで、デジタルの藻屑と消えていったデータも多いだろう。動画は動画で、VHSだ、ベータだ、ミニDVだと、落ち着くことなく仕様の変転を繰り返し、メディアは残れど再生手段がないなど、古いフォーマットが生き残りづらい時代を通過してきた。

一方、今のデジタルネイティブな世代はどうか。幼い頃は親が鬼神のごとく撮影しまくり、小学生もスマホを持っていて、いつでも写真や動画が撮影できて、データは標準フォーマットでクラウドに残る。デジタルネイティブ世代の人生は、さまざまな形で記録されている最中だ。

現在の技術でデジタル撮影されている写真や映像は、この先も残っていく可能性が高い。現在放送されているアニメやドラマなども、ハッキリとした形で残ることになる。これからの世代にとっての人生の思い出の形成のされ方は、以前とはまったく異なるはずだ。そのとき、データとして記録されていない曖昧な思い出の立場はどうなるのか。われわれデジタル化に引っかき回された世代にとっての記録や記憶と、明らかに異なる価値感で思い出が作られていく。

そもそも、縦横無尽に記録された写真や映像をちょくちょく見返すようなことになったら、そんなシーンはたいして懐かしくないはずだ。懐かしくない思い出とは何だろうか。こうして次世代に向けた次世代型の心配事が誕生していくのだ。

以前は明確な記録に残らない前提で「思い出」としていたものが、いつの間にかハッキリしたデータとして残るようになりました。フォーマットや保存場所が安定してきた今では、それらを能動的に消さない限り残ります。さらに分散化することでネット上に残ってしまった消したくても消せないデータもあり、デジタルタトゥーという言葉すら生まれています。記憶とビジュアルの間を漂うような存在であった「思い出」は、この先、どのような意味を持つのでしょうか。

こちらの記事は月刊Mac Fanにて執筆しているコラムを一部修正して、コメントを加筆したものです。

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