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観なければ見えてくる テレビというギリギリの存在

デジタル迷宮で迷子になりまして 第3話

 すっかりテレビを観ていない。もちろんまったく観ないわけではないが、テレビ番組を観ようとしてテレビの前に座る機会はほとんどなく、もう5~6年はまともに観ていないと思う。

 理由はいくつかあるが、仕事で忙しくしているうちに観る機会を逸してしまい、そのままになっているのだ。考えてみると、テレビを観るというライフスタイルは、慣れや継続性に依存していたのかもしれない。毎週観る、毎日観るという連続性が途絶えると、テレビ視聴を生活の中に組み込めなくなる。

 そうなると、今度はテレビが点いている状態のほうに違和感を覚えてしまう。例えば、特に観ていなくてもテレビを点けっぱなしにするという状態が気になる。慣れている人は平気なのだろうが、他人の話し声や笑い声が流れ続ける空間が異様に思えるのだ。

 また、特に民放の放送方法にも無理を感じる。YouTubeでは15秒の広告動画が流れてもイライラするが、テレビではコンスタントに2分以上のCMが番組の合間に流れる。途中に宣伝が差し込まれる映画など、そもそも観る意味がないとさえ感じてしまう。われわれはこれまで、ずいぶんと忍耐が必要なコンテンツ視聴環境を強いられていたのかもしれない。

 当然、その内容が面白ければ、多少の広告は我慢できるだろう。しかし、テレビに頼らずともコンテンツは手元に山ほどある。YouTubeはもちろん、Apple TV、Netflix、Amazonプライムビデオと、際限がない。しかもオンデマンドで、観たいときに観られる。これは非常に重要だ。もはや放映時間に合わせてテレビの前にいる生活など考えられないし、録画してもそのこと自体を忘れるのがオチだ。

 一方で、テレビ放送ならではの現象も起きている。テレビ番組とは、各家庭に強制的に配信されるコンテンツとも言える。全国放送では数百万人規模でのリアルタイムのコンテンツ共有が成立する。

 忘れた頃に放映される『天空の城ラピュタ』が代表例だが、コメント機能などのインタラクションが備わっていないテレビに代わって手元のスマホのTwitterがその役目を果たし、例のタイミングで「バルス」の大合唱が発生する。大合唱にならずとも、同様の現象はTwitterのハッシュタグを介してほかの映画や人気番組でも起きている。

 このようにテレビ放送をリアルタイムでコンテンツ共有できるインフラとして考えれば、そこから面白いことが生まれてきそうな気はする。しかし、制作側の薄い取り組みは散見されるが、特筆するようなものは見当たらない。テレビのリモコンを押してアンケートに参加しても、ちっとも面白くない。

 ところで最近、電車の中で不思議な状況に遭遇する。中吊り広告やドア横の広告などで、タレントらしき人が何かを宣伝しているのだが、それが誰だかわからないのだ。どこかで見たことがあるような気はする。しかし、テレビを観ていないので、普段何をやっていて、なぜ起用されたのか、コンテクストが不明のままだ。たまに見かけるテレビCMでも同様の事態が起きる。

 そういえば、以前は広告の中に「タモリ」などと「誰でも知ってるだろ!」とツッコミを入れたくなるようなタレントの脇にも名前が書いてあり不思議だったが、最近は入っていない。「今こそ当時のように名前を入れるべきだ」と考えたが、一方で「もしかして単に自分が若者に『こんな人も知らないの?』と言われる年配のオジサンになっただけではないか」という考えが頭をよぎる。時間を作って、たまにはテレビも観ようと思う。

最近はMLB中継くらいしかテレビを見る機会がないのですが、集団でのコミュニケーションにおいては相変わらずテレビコンテンツが共通言語として強く、地上波のインフラとしての相対的な強さを実感しています。タレントが引退するニュースを見て、その人のデビューも知らなければ活動も知らないという事態に遭遇し、“自分の社会には存在しないニュースになるタレント”がかなりいることに気が付きました。

こちらの記事は月刊Mac Fanにて執筆しているコラムを一部修正してコメントを加筆したものです。

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