肥大化しすぎた幻想(上) 【世界旅行記043】
2012年9月26日(水) ブッダガヤ → ガヤ(リクシャー) → ムガルサライ(列車 Mahabodhi Exp) → バラナシ(リクシャー)
2012年9月30日(日) バラナシ
おそらくインドを訪れる多くの旅人にとってそうであるように、バラナシという地は、わたしにとっても、なにか特別な意味をもつ場所だった。
バラナシは、ガンジス河(ガンガー)の沐浴風景でよく知られた、ヒンドゥー教の一大聖地である。西岸沿いに80以上ものガート(沐浴場)が連なり、沐浴に訪れるヒンドゥー教徒と、それを見物に訪れる観光客たちで、いつもごった返している。東岸は不浄の地とされ、ただ荒野が広がるのみ。だから、朝日が美しく浮かび上がる。ガンガーが南から北へ流れるのは、この場所だけらしい。
ガートのうちの二つは火葬場になっていて、24時間、休みなしに死体が焼かれ続けている。聖地という言葉とは裏腹に、町には物乞いがあふれ、窃盗や詐欺も日常茶飯事。クスリ漬けのような旅人も多い。とにかくインドの混沌さを象徴するような場所であり、どういうわけか、ここにいると生と死がやけに身近に迫ってくるのを感じる。
この地をわたしは2年半前、はじめて訪れた。「一生に一度はインドへ行け、人生が変わる」と言い続けた中学時代の恩師の言葉が、ずっと頭のどこかにひっかかっていた。その言葉を信じて実際にインドへ行き、なにがしかの影響を受けて帰ってきた幼なじみの影響も大きかった。
学生時代、旅をする機会はいくらでもあった。それでも、わたしはインドへは行かなかった。いや、行けなかった。危険なイメージが先行しすぎて、臆病者のわたしには、とても無理だった。それでも、「いつかインドへ行きたい、いや行かねば」という思いは消えなかった。わたしに多大な影響を与えたこの恩師は、退職後、教え子たちに連絡先も伝えず、シニア海外ボランティアとして、東南アジアの国に移り住んでしまった。
2年前の2月、忙しいプロジェクトが終わったのを期に休暇を取得し、わたしは1人でインドへ向かった。仕事で強いプレッシャーを感じ、疲弊した日々が続いていた。行くなら、いましかないと思った。あいかわらず危険なイメージがつきまとっていたから、ホテルと鉄道は日本で手配しておいた。たった1週間で、北部のニューデリー、バラナシ、アグラの3都市をまわった。インド初心者がまわる、もっともベーシックなコースである。
インドへ行った人はみな口を揃えて、「インドへ行くと人生が変わる」と言うが、「1週間で人生が変わってたまるか」という気分だった。しかし、結果的に言うと、このインド旅行は、わたしのその後の生活に、自分でも思ってもみないほどに大きな影となってまとわりつき、いつまでも離れることがなかった。いま、こうして会社を辞め、世界をまわる旅をしていること、そして、ふたたびインドを訪れ、気がつけば2ヶ月も滞在していたという事実。それだけをとっても、あの旅行は、わたしに大きな影響を与えたと思うし、悔しいけれど、たしかにインドという場所は、わたしの人生を変えたかもしれないと思う。
なかでも、わたしに鮮烈な印象を残したのが、バラナシだった。インドへ行った件の幼なじみが、現地でボート漕ぎの少年たちと仲よくなっていて、その子たちに会ってきてほしいというので、会いに行った。頼りになるのは、少年たちの写真と、彼らがいるガートの名前だけだった。これでは情報が少なすぎる。会えなかったら仕方ないと思った。
ところが、おどろくべきことに、ガンガーから遠く離れたホテルの前で、最初にたずねたリクシャーの運転手が、彼らを知っていた。それで、わたしはなんの努力もなしに、あっさり彼らに会えてしまった。
それからの3日間、彼らがずっと面倒をみてくれた。不浄の地と言われるガンガーの対岸へ行ってタコ揚げをしたり、彼らの家へ行って昼食をご馳走になったりした。最後はやることもなくなって、ボートの上で昼寝したりした。幼なじみが築いた信頼関係のおかげで、わたしは危険な目に遭わずに済んだ。リクシャーの運転手も、最後に自宅へ連れて行ってくれて、もてなしてくれた。たった1日で、3軒ものインド人の家をまわった。
それでも、わたしは先進国から来た一観光客にすぎなかった。ボート漕ぎの家は貧しい。ことあるごとに小遣いをねだってきたし、リクシャーの運転手はたびたび高い店へわたしを連れて行こうとした。それらは日本円に換算して考えれば、たいした金額ではなかった。しかし、彼らの生活水準から考えれば、破格の値段だった。これがわたしに混乱をもたらした。
わたしが貧しい国を訪れるのは、それがはじめてだった。だから、日本との激しい物価の乖離に戸惑い、そのたびごとに頭を悩ませた。なにが適正なのか、いくらならお互い満足なのか。インドのむずかしい点は、「日本の何分の一」という具合に、一律に物価を定義できない点にあると思う。たとえば、街なかで売られている食べ物が、日本の十分の一程度だとすれば、一方で、ちょっとよさそうなホテルの値段は日本と同じくらいだったりする。インドは明確な階層・格差社会だから、自分がどの水準で旅をするかで「日本の何分の一」かが変わるし、同じ旅のなかでも、場面によってその基準がころころ変わっていく。それで、わたしはえらく混乱し、滅入ってしまった。そういう感覚に陥ったのは、はじめてだった。日本にいては、そういう感覚には絶対に陥らない。
そういう経験があって、大げさに言えば、それまでの価値観をぜんぶひっくり返されたような、頭の中をガラガラポンされたような、そんな感覚になって、わたしは帰国した。その後もずっと、そのときの感覚が消えることはなかった。
バラナシには、人間のいい面も悪い面も、ぜんぶがごった煮のように共存していた。したたかに生きる人々は、わたしに「生きている」という、あたりまえの事実を思い出させてくれた。「ああ、いまここにわたしは生きている」―― 忙しい日々のなかで、わたしにはそういう純粋な感覚が欠如していた。彼らは、貧しいけれども、日々を一生懸命に生きていた。遠い将来を心配する余裕もなく、ただ日々を生きていた。わたしはと言えば、日々の営みを軽んじて、あてもない遠い将来をやみくもに心配していた。日本に帰ってから、彼らの日々を生き抜くパワーが、うらやましくなった。「またバラナシに行きたい」という思いは募る一方だった。
あれから2年半、わたしは無職という身になって、ふたたびバラナシの地を訪れた。
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