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チベット記(1) 夏の離宮に思いを馳せて 【世界旅行記031】

2012年9月1日(土)〜3日(月) 中国 成都 → チベット ラサ(青蔵鉄道)

ラサ最初の観光地は、ノルブリンカである。もっとも有名なポタラ宮は完全予約制で、翌日の入場しかできない(入場時間まで指定される)。そこで、まずポタラ宮のチケットオフィスで翌日の予約票を入手し、それから西へ少し離れたノルブリンカへと向かった。

ポタラ宮のチケットオフィス。15分ほど並んで翌日の予約票を入手。パスポートが必須だ。

ノルブリンカは、ダライ・ラマの夏の離宮である。寒い時期はポタラ宮で過ごし、暑くなるとノルブリンカで過ごす、これが7世以降の歴代ダライ・ラマの習慣になっていた。ノルブは宝、リンカは庭を意味する。

チベタン・ガイドのゲルさん(ラサ生まれのラサっ子)は、どこを見たいかわたしたちの自主性に任せてくれる。わたしたち夫婦は、『ダライ・ラマ自伝』に何度も登場するノルブリンカを、どうしても見てみたかった。ダライ・ラマ14世は、重たい歴史の詰まった薄暗いポタラ宮よりも、緑豊かで明るいノルブリンカを気に入っていた。そこがどんな場所なのか、この目で見ておきたかった。

「ポタラにずっと暮らすようになってから二十歳の初め頃まで、毎年春先になるとノルブリンカに移り、半年後冬の始まりととともにポタラに戻るという生活を繰り返した。ポタラ宮殿の陰気な部屋を離れるその日はまぎれもなく一年でわたしのいちばんの楽しみの一つだった」
                 (ダライ・ラマ『ダライ・ラマ自伝』)

そもそも、ポタラ宮とノルブリンカが、こんなに目と鼻の先にあるとは思わなかった。文章で読む限り、まるで気候すら違うかのような印象を受けていたので、東京と軽井沢のような関係をイメージしていた。それが実際は、たった3キロしか離れていない場所に存在していた。

ノルブリンカは広大な庭園で、そのなかに歴代ダライ・ラマが建造した建物が点在している。8世が建てた「ケルサン・ポタン」、13世が建てた「チェルセン・ポタン」、14世が建てた「タクテン・ミギュ・ポタン」の順に見てまわった。園内は色とりどりの花壇であふれ、遠くには山々が見える。ラサ市内の喧騒が嘘のように静かだ。

ダライ・ラマの夏の離宮、ノルブリンカ内の様子。 緑豊かで静かな空間が広がっている。

敷地の広大さに比べて、それぞれの建物は意外に小さい。なかへ入ると薄暗く、灯明に使うバターの匂いが立ち込めている。中央にダライ・ラマが鎮座する高台があり、そこにまるで亡骸が座っているかのように丸まった衣装が置かれている。そのまわりを取り囲むように、いくつもの仏像が目を光らせている。高台の前には、仏教徒からの供物が並んでいる。見かけはコーラなどのペットボトルだが、なかに入っているのはお酒やお茶だという。数は少ないが、祈りに来ている人々もいた。

歴代ダライ・ラマが使用したという馬車や三輪車なども無造作に置かれている。博物館にガラスケース付きで展示されていてもおかしくないような代物だ。とにかく、外の明るさに比べて、建物内の雰囲気は重々しい。

仏像一つひとつの意味を、仏教徒であるゲルさんが丁寧に説明してくれた。建物内は写真撮影禁止のため、内容は記憶に頼るしかないのだが、それらをいま文章で書けるほど記憶できていないことが悔やまれる。

ダライ・ラマ8世の離宮「ケルサン・ポタン」。
建物のなかは、灯明に使うバターの匂いで充満している。
ダライ・ラマ13世の離宮「チェルセン・ポタン」。
正面からの見た目は、8世の離宮とほぼ同じ。

ノルブリンカ内でいちばん大きな建物は、14世の離宮「タクテン・ミギュ・ポタン」である。1954年、ダライ・ラマ14世が20歳になるかならないかのときに建てられた、2階建てのきらびやかな建物である。

この離宮に、ダライ・ラマ14世はたった5年しか住めなかった。1959年、彼はここノルブリンカから脱出し、インドへ亡命した。中国の弾圧に屈しまいと抵抗する民衆を守るための、唯一の方法だったという。20代の青年には重すぎる運命である。

この建物の2階には、当時の生活空間がそのまま展示されている。ダライ・ラマ14世の瞑想室、寝室、浴室、応接室、母親との面会室などを見てまわった。どの部屋も質素で狭い。ただ、インド製のレコードプレーヤーや当時としては先進的な西洋式の浴室などから、ダライ・ラマ14世の新しいもの好きな性格を垣間見ることができる。

この建物が異質なのは、本来の住人であるダライ・ラマ14世がまだ存命中だということである。もし、中国による侵略などなければ、いまでも彼はこの場所に暮らしていた。それを思うと、いたたまれない気分になる。本来の住人が去り、わたしのようなおのぼりさんが観光に来て、本来の住人の住処を覗き見る。もし彼がいまもここに住み続けていたら、どんな空間に変わっていただろうか? どんな新しい機械を置いただろうか?

残念ながら、この建物は1959年を境に時を止め、過去のものになってしまった。本来の住人が愛してやまなかったこの夏の離宮に戻れる日を願いながら、わたしたちは太陽が煌々と照りつける庭園をあとにした。

いま、この庭園は、ラサの人々の憩いの場になっているという。

ダライ・ラマ14世の離宮「タクテン・ミギュ・ポタン」。
1959年、14世はここからインドへ亡命した。

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Travelife Log 2012-2013
世界一周の旅に出てから12年。十二支ひとまわりの節目を迎えた今年、当時の冒険や感動をみなさんに共有したいという思いから、過去のブログを再発信することにしました。12年前の今日、わたしはどんな場所にいて、何を感じていたのか? リアルタイムで今日のつぶやきを記しながら、タイムレスな旅の一コマをお届けします。


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