【人生100年観 #005】死の美食家を目指して ~Toward the Gastronomist of Death~
こんにちは、ひろげとんです。
すみません、また怖いタイトルで,,,,
今回はボクが鬱になって自殺未遂をした経験から学んだことや揺れ動いた感情などについて綴ってみようと思う。
では、本題に入る。
ボクは2年前の夏、自殺をしようとした。
原因はよくある「仕事によるもの」である。
1. Episode.Ⅰ
当時、表参道のあるクラブバーでバーテンダーとして仕事をしていた。
そのころはまだしがないいちバーテンダーだった。
ただ、クラブバーなので皆さんがイメージしているような一般的なバーではない。
まさにDJがいて、ミラーボールがあって、コロナ禍ということもありお客も10人のときもあれば100人のときもあるという個人経営のバーである。
従って毎日パーティやらイベントで会場内はEDMやHIPHOPなどの曲をRemixしてDJが披露していたりしていてかなり騒然としている。
なぜバーテンとして働き始めたのかというと、結論は友達紹介である。
以下に詳細を載せたいと想う。
クラブで働き始めた経緯は以上の内容である。
働き始めて感じたことはとにかくお酒を造ることが楽しいのと、技術の高いDJが出演しているときのシフトは至高の時間だった。
ただ異変を感じ始めたのはその2か月後のこと。
先ほど個人経営と言ったが、社長との距離が近く週の4日はクラブにいるという状態だった。
ボクは2か月経ったころには月の売上を個人で450万達成していた。それを見ていた社長が、ある日の仕事終わりに声をかけてきた。
社長「今俺のクラブは人手が足りない。なんなら社員が1人もいない状況だ。本来、社員がいたら君には声はかけないんだけど…」
ひと呼吸おいて。
社長「マネージャー (統括責任者)をしてくれないか?」
ボク「は?」
一瞬耳を疑った。理由は2つある。
まず要領が悪い自分にこの役職が回って来るとは思っていなかったから。
もう1点はアルバイトで雇われている状態で役職に就くことはできないはず、という考え方に縛られていたから。
即答できず、考え込む。
社長「給与は上がらないんだけど、君お金ないって聞いていたからいくらでも貸すからやってみない?」
さらに条件を提示してきた。
ボク「少し考えさせてください。明日までに答えを出します。」
次の日….
ボク「分かりました。大学が始まる3か月間だけにしてください。その間に社員を見つけてください。ボクは3カ月までしか勤めません。」
と社長に伝えた。
なぜならマネージャーなのに給与が変わらないこと、そして基本的に夜勤だが、マネージャーになると事務仕事も増加するから日中から仕事することになるので、大学に影響が出てしまう可能性を考えたからである。
ここから本格的に地獄が始まり、脳が溶かされる感覚で洗脳されていく。
まず、マネージャーになってクラブを2店舗任される責任者になった。
言い忘れていたが、バーテンダーの時代から1日のシフトの中で2店舗を移動しながら勤めていた時もあったので任されること自体は予想通りだった。
そして仕事の割り振りとかシフトの管理などをお願いされ、社長からの指示も減った。
しかし、1週間も経たないうちに可笑しくなり始める。
ある日、社長からもう1店舗経営している横浜にある飲食店のコロナによる助成金の申請を全部任せたい、という要望が入った。
正直また耳を疑った。
ボクが任された範囲はクラブ2店舗の運営だから。
さらにその頃からなぜか朝の10時から翌日の7時過ぎまで仕事をするというブラック中のブラック環境下で働かされていたこともあり、疲労困憊している中での追加の仕事という、もう気が狂いそうだった。
しかし、それでもボクは断り切れなく、無理やり愛想笑いを浮かべて二つ返事で了承する。
何故ならこの前の段階でボクが学費がない情報をどこかで仕入れていて、「貸してあげるよ」という甘言に載せられ、上手く断り切れない弱さにより判断力が鈍り、借用書を書いてしまったからという経緯もある。
断ったり、辞めようとしたら全額返金するという無茶苦茶な内容の借用書だ。
さらに返事のスピードが遅かったり、業務でミスを1回でもすると借金額が増えるか、無給無休で働くことになるという内容までプラスされている始末。
でも書いた覚えはない。何故なら書いていた時は思考を停止しながら現実逃避(自分を俯瞰で見つめる)、つまり解離性障害に近い状態を維持しながらだったから。
これはボクが幼少期に肉体的にも精神的にも虐待を受けていたころに自身の心の中で起きた弱者なりの唯一の防御策である状態と近似していた。
それからというもの家には帰れなくなり、仕事は終わらなくなり寝る時間も2時間あればいい方という生活になる。
そうこうしているうちに6月半ば。
洗脳されきって脳を停止され働いていたある日の仕事終わりに、ふと気づく…。
「このままではホントに死ぬ」と…
そう思った時には、店舗に関係のあるものを全て置いて逃げ出した。
仕事終わりの明朝のできごとである。
2. Episode.Ⅱ
それからというものの、警察に訴えても取り合ってくれず、弁護士費用も100万以上掛かるということで払えず、と泣き寝入りするしかない状況になった。
ボクはもう疲れてしまい、寝込む日々が続く。
そしてそのまま双極性障害とPTSDを患い。
8月の真夏の暑い日に自殺未遂も2回した。
どちらもOD(オーバードーズ)だったが、どちらも記憶はないし、未だに鮮明には思い出せない。
まるで灯篭の火を見つめているようなユラユラとぼやけた景色のようだった。
特に2回目に関しては、市販の風邪薬を400錠以上飲んでしまい緊急搬送された。病院で胃洗浄を受けましたが全部は排出できず、その結果2か月入院することになり、肝臓を一時的に悪くしてしまった。
闘病生活はこの20何年間の人生で最も体力的にも精神的にもトップテンには入るキツさだった。
常に吐き気と下痢で全て戻してしまうから食べることができなくなり、栄養は点滴で摂取する生活になった。
ここからは、心理カウンセリングも含めて2か月間の闘病生活を得て変化したことや感情の揺れ動きなどについて語っていきたいと思う。
闘病生活中にある本を読破した。「完全自殺マニュアル」という本である。
この本は自殺の方法を詳らかにそして客観的に記した本である。
タイトルからしてとても恐怖に感じるが、実際の中身はそうでもない。
そして何よりも方法論だけではなく、それを行ったことで亡くなった方や後遺症が残った方のケーススタディまで記されていたのは非常にリアルに感じた。
書評はここまでにして、まずなぜボクがこの本を手に取ったのか、について語ろうと思う。
結論から言うと、まあおかしかったということ。
「少年A」も歴史的事件を起こす前に読んだと言われるこの本で、彼は何を感じて事件を起こしたのか、その気持ちをなるべく理解してみたかったという突拍子もない考えが急に湧いて溢れ出てきたから。
今でもなぜこのときにそんな考えがポッと出てきたかは分かっていない。
1つ言えることは少年Aの幼少期の家庭環境が虐待が日々ある環境だったこと。
それが非常に自分の見えている世界に近しいものだったからと、彼とボクを重ね合わせて強く想ったこと、であると感じている。
読んでみて揺れ動いた感情としては、世間の習慣や行動様式にボクを当てはめて息を吐くことを止めて必死に生きようとすること自体に意味がないことを知って落胆したことだ。
彼は読んだときにそれに気づき、虐待を受けていることに対して助けを呼んでも誰も助けてくれることはなく、その怒りや憎しみや苛立ちなどをぶつける相手もいないから、矛先が世に向いただけ。
死に向かう最期の手向けとして、世に公表するという形で「劇場型殺人」を選択しただけだと想う、とボクは彼に想いを馳せている。
そして、それこそが「自殺」の本質なのでは、と考えた。
3. 自殺未遂を経て….
自殺をすることに対しての明確な答えは未だ見つからないし、永遠に見つからないのかもしれない。十人十色だしそもそも答えを見つけようとすること自体が愚の骨頂かもしれない。
これはあくまでも現時点の僕の答え。
タイトル「死の美食家」と書いてある通り、捉えようによっては死に対して美化している部分を感じるかもしれない。
まさにその通り。
ボクは死に対してネガティブな感情はほぼない。
逆にたまにポジティブに捉えるときさえある。
死は人に平らに訪れるもので恐怖に慄くことではない、いつでも死を待ち望めるような心でいるだけ、と。
自殺未遂をした際に友人に語気を強めて言われたことがある。
「絶対に死ぬことだけは考えるな!生きることでしか人の価値は見いだせない!大変なことはあったと思う。でも生きてるだけでもう100点だから!」
この言葉に関して、未だに腑に落ちていない。
やはりそれは間違っていると思っている。
まず、「生きているだけで100点という言葉」
これ旅人に多い発言みたいだけど、生きているだけで100点と想える人は幼少期に自己肯定感を高く育ててくれた両親もしくは片親の影響が大きい。
他人の力を借りず、意見を模倣できるような環境にもいなく、そして全て自己という狭いスペースだけで二十歳まで過ぎていった人にはなかなか身につきにくい能力である。
自己肯定感というのはいつでも育てられることに関して否定はしない。
ただそれは歳を取れば取るほど、残念ながら確率が低くなる。
次に「生きることだけでしか自分の価値を見出すことはできない」
上手いこと言っているようにも見受けられる。
でもどうだろう。そこに当てはまる人はそれこそ十人十色。
当てはめるのではなく当て込むこと自体がそもそも間違いなのでは?
と単純な疑問である。
助けようと手を差し伸べてくれた友人には申し訳ないが、あの場で彼は間違いなく自分の物差しでボクをそこに無理やり当て込もうとした。
そう取られてもおかしくない言動だった。
嵌まるわけがないピースを強引に嵌めようとしたらどうなるか。
そう、壊れる。
ボクは幸い壊れはしなかったけど、何も響くものがなかった。
あまりにも1つ1つの言葉が陳腐に聞こえたから。
そして自分の価値を見出すことは、それは死で見せることだってあるはず
だと想っている。
自殺は読んで字の如く「自我を殺すこと」
肉体的な死をイメージする人が多いが、そもそも自ら死に向かおうとしている人はすでに何度も死んでいる人だ。
自我を惨殺された人たちが価値を見出せる場所は少なくともこの世ではなくなる。
その人に対して「生きることでしか価値を見出せない」と訴えかけたところで、その人の助け舟となるかは正直分からない。
最近、コロナによって若者の自殺者が増えている。
ボクだって未だに常に自殺を念頭には入れている。
若者の、いや全体で見てもそうだが、自殺者の9割が自己肯定感がほとんどない人たちだと闘病中にカウンセラーに言われたことがある。
そして…
「自殺は悪いことではない。自殺をしたからって地獄にいる悪鬼羅刹の群れの一員になることではないんだよ。」
この言葉がかなり響いた。いけなくはないんだと。
それから自殺に対する価値観が変わった。
自殺を表現できるアーティストになろうと。死に行こうとする人たちの手向けとなれるような表現者になろうと。
自殺者を減らしたいとは微塵も想っていないが、敢えて言うなら。
「自殺を昇華するには美味しそうに食べて消化すること」
今、ボクは非常に美味な生活だ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?