「幸福は表現的なものである」 〜『人生論ノート』より
哲学者 三木清 氏の『人生論ノート』を読みました。
昭和13年(1938年)〜16年(1941年)、雑誌「文学界」に連載されたエッセイをもとにして、「死」「習慣」「孤独」「成功」「希望」「個性」など 23のテーマが語られている一冊です。
1テーマは5〜10ページほどの分量ですが、各テーマともに思考や論考が深く、また他のテーマも絡めて書かれているため、行きつ戻りつしながらの読書体験でした。
「幸福について」の章で、いくつか気になる記述があったのでピックアップしておきます。
まず自分が幸福であること
「幸福は徳に反するのではない」という表現が目を引きました。
幸福は徳に反するものではなく、むしろ幸福そのものが徳である。
「愛するもののために死ぬ」ことが美徳とされる時代背景のなかで、愛する誰かを守るためにも、まず自分が幸福であることが善いことだ、と三木氏は説きます。
我々は我々の愛する者に対して、自分が幸福であることよりなお以上の善いことを為し得るであろうか。
愛するもののために死んだ故に彼等は幸福であったのではなく、反対に、彼等は幸福であった故に愛するもののために死ぬる力を有したのである。
幸福は人格である
次に登場するこちらの文章にも、また唸らされました。
幸福は人格である。ひとが外套を脱ぎすてるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が幸福な人である。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘う者のみが斃れてもなお幸福である。
幸福は人格だと言い切っています。
つまり、脱ぎすてることも、捨て去ることもできない、自身と一体になったものだ、ということです。
なので、「幸福になる」という表現も少し違うのかもしれません。「幸福だと決める」みたいな感じでしょうか。
幸福は表現的なものである
そのうえで登場するのが、「外に現われる」「表現的」という言葉です。
機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現われる。歌わぬ詩人というものは真の詩人でない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。
人格として切り離せない幸福だからこそ、何らかの行動につながり、外から見て分かる形で現われる、ということですね。
幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現われて他の人を幸福にするものが真の幸福である。
そうやって、自然に幸福が外に現われている人のそばにいると、他人へも伝染していく効果がある。そういうものが「真の幸福」なんだ。
この言葉で、三木氏は幸福についてのエッセイをしめくくっています。
まとめ: 幸福を内外へ沁みこませよう
今回、『人生論ノート』を読んで再認識したのは、「幸福になるために○○する」思考への違和感でした。
「××円稼げば幸せ」「△△人に認められれば幸福」「□□賞をとれば幸せ」という基準設定をしてしまうと、なかなか自分で自分にOKを出せなくなります。仮に、その基準を達成しても、「もっともっと」というレベル競争になってしまい、いつまでたっても幸福を感じることができません。
そうではなく、自分が「幸福だ!」とまず決める。その瞬間が全てのスタートだと思うのです。すると、その幸福がジワジワと身体全体に沁みわたっていきます。そうなって初めて、他の人へも幸福のおすそわけができるんだろうと感じました。
先日この本を読書会仲間で語りあったときも、「孫がかわいくってしょうがない!」「初めて作った眼鏡が見えすぎて感動!」「最近見つけた漂白剤のパワーがすごい!」みたいに、他人にとってはある意味どうでもよい内容(失礼! 笑)で盛り上がりました。そして、この対話をしているときの空気は、まぎれもなく幸福感にあふれていました。
自分のなかにある小さな幸福のタネを発見し、それを心から愛おしく思うことで、幸福が内外に沁みだしていくんじゃないか。
『人生論ノート』の読書体験を通じて、そんなことを感じました。
※Twitterでも、読んだ本の情報をつぶやいています。よかったら覗いてみてください。
ちなみに、『人生論ノート』を読むきっかけは、読書会の課題図書としての出会いでした。
読書会人間塾では、「死ぬまでに読みたい名著」を毎月1冊みなで読んでいます。次回7月28日は『100分de名著 ハンナ・アーレント 全体主義の起原』を読みます(3部作の原書は大著すぎるので解説本で)
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