見出し画像

7月豪雨で1週間の孤立状態だった集落を救ったのは…|47キャラバン#番外編@熊本県球磨村

水没した熊本県球磨村へ

 福岡でのキャラバンの後に、ちょうど知人の女性が今回の球磨川の氾濫で被災した熊本県の球磨村の実家に帰省するというので、福岡からも遠くないし、一緒に行くことにした。

 知人の実家は、一時、国道が寸断されて孤立した球磨村の神瀬地区にあり、2階まで完全に浸水する被害にあった。同地区の住民は、散り散りに周りの市町村の避難所に避難している。

画像1

 豪雨災害から1ヵ月。ようやく瓦礫や流木が道路から取り除かれたが、まだこの通りであった。

画像2

 知人の実家の1階部分。ボランティアにも手伝ってもらい、家財の搬出や泥出しを終えたが、まだ到底住むことはできない。そんな中、水をかぶったアルバムが乾かされていた。この光景を各地で見てきたが、モノは捨てられても、思い出は捨てられないのが人間なんだなと、毎回思わされる。

画像3

 神瀬地区のお寺の住職で、地域のリーダー的存在である岩崎哲秀さんと復興のあり方についてしばらく話し込んだ。岩崎さんが言うには、内閣府の「スーパーシティ構想」を活用した復興を、元々暮らしていた場所とは異なる場所でやる話が持ち上がっているのだという。

スーパーシティ構想とは?
「最先端技術を活用し、第四次産業革命後に、国民が住みたいと思う、より良い未来社会を包括的に先行実現するショーケース」

 復興に際してこのような構想が持ち込まれるとしたとき、どう考えればいいのだろうか。それは果たして被災地の希望になりうるのだろうか。

 ここで思い起こされるのは、ジャーナリストのナオミ・クラインの著書「ショック・ドクトリン(惨事便乗型資本主義)」である。自然災害などの大惨事につけこんで、被災者がショックと茫然自失から覚める前に、過剰な市場原理主義改革が実施されることがあるという。

画像4

 リスクゼロを目指すスーパーシティは一見、便利で快適で安全な未来を約束するように見える。確かにそれもひとつの選択肢だとは思うし、最終的にはそこに住んでいる人たちが選択する問題ではある。しかし、地域は本来、その土地の自然環境や精神文化に紐づいてつくられてきたものなはずだ。スーパーシティでその固有性は担保されるのだろうか。スーパーシティに生まれ変わった”球磨村”は、本当に球磨村であり続けるのだろうか。

 9年前、私たちは東日本大震災を経験した。東北の現在の姿を知ることは、同じような自然災害に見舞われ、復興の道を歩み始める地域にとって、非常に示唆に富む判断材料となるはずだ。岩手県の沿岸を徒歩で縦断したばかりの私から、巨大なコンクリートの防潮堤で、海と陸が隔てられた東北の今の姿を岩崎さんに共有させてもらった。

誇り高き日本人の姿 

 この日、最後に訪ねたのは、球磨村三ケ浦の毎床地区。山の斜面に広がる棚田は、日本の棚田100選にも選ばれている風光明媚な景色だ。生産性だけを考えたら、こんなに条件の悪いところはないだろう。それでも、ここで誰かが米をつくり続ける限り、この景色は保たれる。そして、毎床は毎床であり続ける。棚田は、この地域が生きている証そのものなのだ

画像6

 この地で代々、梨農園を営んでいる毎床智和さん(36)から話を聞いた。球磨川から離れた山奥にある毎床地区は、道路が寸断され、1週間も孤立状態となった。その間、断水と停電が続き、携帯電話も不通だったために、外部との接触も完全に絶たれた状態となったそれでも住民たちは共助の力でこの1週間を乗り切った。

 山が崩れて用水路が寸断されたとなれば、みんなで集まり、自分たちで復旧作業をしてしまう。鼻から行政の支援を当てにしていない。つまり、ここでは観客席で高見の見物をしている住民はおらず、すべての人がグラウンドに降りてプレーする当事者なのだ。およそ大都市では考えられないことだ。

 そして、自然災害が多発する時代にあって、私たちが学ばなければならないのはまさにその精神ではないだろうか。条件不利地域になればなるほど、こうした相互扶助の力は強くなる。

画像5

 曽祖父の代から100年以上続く梨園を受け継いだ毎床さんは、昨年度の県農業コンクール大会の新人部門で優良賞を受賞した。毎床さんは「こんな山奥だからこそ、他の地域には絶対に負けたくない」という。そして「地域の中で誰かがやらなければならない仕事や役割ができたとき、絶対に最初に取りにいく」と、樹齢100年を超える梨の木の下で笑った。先細る一方の過疎地に、誇り高き日本人を見た思いがして、背筋が伸びた。

画像7

各種リンク

▼「REIWA47キャラバン」について

▼これまでのキャラバンの様子はこちら

▼令和2年7月豪雨被害の支援について


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?