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【建築】"天に近づく崇高さ"が表現されたカトリック桂教会(ジョージ・ナカシマ)
「恋人よ 僕は旅立つ 東へと向かう 列車で 〜」
という歌があるが、その日、僕は西へと向かう列車で、岡山で下車して瀬戸内海を渡り高松に降り立った。カトリック桂教会の訪問記を書くためである。なぜ京都の建築の話のために高松に行くのか?
そう、どうしても行かねばならぬ理由があったのだ。
カトリック桂教会は京都市の桂駅から10分程歩いた住宅街にある。西院教会巡回教会として創立され、1958年にカトリック桂教会として独立した教会だ。当初は切妻屋根の小さな平屋の建物だったが、1965年10月、新たな聖堂が献堂された。今回訪問したのはその教会だ。
日本らしくもなく、かといって伝統的なカトリックの教会らしくもない不思議な外観だ。一見分かりにくいが、平面プランは菱形の礼拝堂と十字架が掲げられた円筒形の洗礼室から成る。
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特徴的なのは礼拝堂の屋根。柔らかな放物線を描く屋根はシェル構造という工法でつくられている。
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シェル構造には柱を少なくして、内部空間をスッキリ出来るという利点がある。またユニークな形状をつくりやすいので、近代ではシェル構造を採用した教会も少なくない。
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建物の周りは小さな庭園となっている。川や堀があるわけでもないのに、アプローチには石橋まであって面白い。
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木のドアには手裏剣のような小さな十字架が散りばめられている。
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中に入ると…
おお! 和洋折衷のような独特の、しかし神聖な空間が広がっていた。
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入口周辺の天井はやや低めだが、それが緩やかにカーブしながら祭壇に向かって高くなっている。これは天に近づく崇高さを表現しているそうだ。
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十字のスリットが印象的な祭壇も建築と調和している。
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祭壇に掲げられたタペストリーは西陣織で、聖霊降臨を象徴する鳩、王であるキリストの冠、人々がキリストと結ばれている有り様を表わすぶどうの木で構成されている。
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祭壇、照明、家具などのインテリアも建築家によるデザインである。
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円形の窓に四角形の障子枠という組合せもユニークだ。
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こうした組合せは他の古民家などでも時々見かけるのだけど、
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この教会では円に対して障子枠が全然収まっていない w。
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行灯をイメージさせる照明は、それまでに建築家がデザインしてきたデスクライトをアレンジしたものだ。
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長椅子はシンプルなデザイン。
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入口脇には告解室もあった。
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礼拝堂の対面にある建物は洗礼室、つまり信者となる時の儀式を行う部屋となっている。
奥に見える礼拝堂は小さくないが、遠近感のあるデザインなので、見る方向によっては洗礼室が不釣り合いに大きく見えてしまう。
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広い部屋ではないが天井がゴツい。照明は多分後付け。
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それにしてもこの屋根、惚れ惚れする美しさではないか?
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余談だが諸事情あって別日にも訪れたが、その日は見事な大雨(笑)
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しかしその美しい屋根を流れる"雨の道"が見えて、とても良かった。
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さて、この美しい教会を設計した建築家とは?
タイトルで既にネタバラシしているが、それは建築家、そして家具デザイナーとして知られるジョージ・ナカシマだ。
ジョージ・ナカシマはワシントン州出身の日系二世のアメリカ人。大学・大学院で建築を学ぶと、大学院修了後に世界一周の旅に出る。道中フランスではコルビュジエによるスイス学生会館にも魅了されている。
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日本に来たのは1934年。来日するとアントニン・レーモンドの建築事務所に入所。同僚は吉村順三や前川國男らだった。レーモンドは日本の大工の棟梁や職人をとても信頼しており、ナカシマも彼らから木材へのこだわりや職人の技を学んだ。この日本での数年間は、ナカシマにとっても作品作りに大きな影響を与えたことだろう。
その後、ナカシマはインドでの現場監理を経て、1940年に郷里のシアトルに帰国する。戦争による政情悪化のためだ。
アメリカに帰国した彼はフランク・ロイド・ライトの建築を目にしたが、それらが工業的に生産された建材や工法で作られているのを見て"建築"に失望し、家具デザイナーへと転向する。ライトと言えば有名建築ばかり思い浮かぶが、一般住宅も数多く手がけている。ナカシマが見たのはそんな建築だったのかもしれない。
1941年に世界大戦が勃発すると、ナカシマはアメリカ人ながら「日系」ということで強制収容所に送り込まれる。ナカシマにとって幸いだったことはレーモンドがこの窮状を知り、間もなくナカシマの家族を収容所から救出したことだ。
ナカシマはペンシルベニア州ニュー・ホープの農場に移り、小さな小屋で家具作りを始めた。後にニュー・ホープはナカシマの自宅兼工房となり、1990年のナカシマ亡き後も彼がデザインした家具が製作されている。
カトリック桂教会の建設においては、もう一人重要な人物がいる。桂教会の司祭だったレオポルド・ヘンリー・チベサー神父である。
チベサー神父は日本での布教を志し、1926年に来日した。この時は数年後にアメリカに帰国するが、その時シアトルで出会ったのがナカシマだ。チベサーはナカシマら日系アメリカ人が強制収容所に送られた際にも同伴し、収容所が閉鎖されるまで日系人と共に過ごした。
1946年、チベサーは日本復興のために再来日する。そして桂教会に赴任すると、新しい教会建設する際にはその設計をナカシマに依頼した。ナカシマは強制収容所の時の恩返しということで無償でこの仕事を引き受けた。
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ただし拠点がアメリカであるナカシマは付きっきりで設計していたわけではなかった。ナカシマのラフなスケッチから実際に実施設計図面を作成し現場監理を進めたのは、当時早稲田大学に留学していたナカシマの長女ミラと後に彼女の夫となる甘粕哲である。
ここで話は冒頭に戻る。なぜ高松なのか?
実は高松にはニュー・ホープ以外に世界で唯一ジョージ・ナカシマデザインの家具を製作している会社がある。もちろん生前にナカシマ本人がその実力を認め、日本におけるパートナーとして共に歩んできた会社だ。
その会社、桜製作所がジョージ・ナカシマ記念館を併設しているのだ。
そう! ナカシマデザインの家具の実物を見て、その椅子に座ってみないことには建築の記事も書けないではないか!
ということで記念館にやってきた。
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記念館にはナカシマが建築家時代に手がけた椅子をはじめ、製作の見本となる家具などが展示されている。これらは写真撮影禁止で座ることもできないが、それとは別に現在も製作・販売されているナカシマデザインの家具のショールームも備えており、実際に座ることも出来る。
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ナカシマと桜製作所を引き合わせたのは彫刻家・流政之。ナカシマは機械による大量生産品ではなく、職人による手仕事・技術を好んだ。この桜製作所にも優れた職人たちがいた。そのことがナカシマが桜製作所をパートナーに選んだ最大の理由だろう。
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ちなみにナカシマと桜製作所が出会った1963年頃、香川では地元の職人たちを中心に、日常で使い続けてきた民具をより洗練させた新しい形で再生しようとする工芸運動「讃岐民具連」があり、その設立には流政之や桜製作所の創業者たちも関わっていた。そして設立の翌年にはナカシマも参加することになった。
また香川では1950から60年代にかけて、当時の知事だった金子正則の招きにより多くの建築家や芸術家が香川に集まり、多くの作品を残している。
この記念館のカフェスペースには、その頃に桜製作所の工房を訪れた彼らのサインが入った古い梁が展示されている。ナカシマや流政之はもちろん、イサム・ノグチ、和田邦坊、猪熊弦一郎、金子正則、東孝光、林雅子など錚々たるメンバーだ。
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最も重要なことは、僕がこの記事を書いているうちに行きたくなったということだ。ジョージ・ナカシマの工房のあるニュー・ホープに。
「僕は旅立つ 東へと向かう 飛行機で 〜」
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