ごみとごみ箱は互いに持っている

若者とやりとりをしていると毎日のように、あふれてくるのが、愚痴だったり、悩みだったり。ちょっとイメージは悪いですがそれをひとつの「ごみ」とみたてて今回の記事に。最近、埃とかごみとか、そんな話ばかりですみません。語彙力の問題ですね。勉強します。

今回のごみは、自身の内側にたまっていくもの。環境要因でできあがる埃が自室(自分の頭の中、心の中)にごみとしてたまりだし散らかり出す。一度散らかり出すと収拾がつかなくなるのがごみである。

そこで、ひとまずごみ箱に捨てようとするわけですが、大抵、そのごみ箱は家族だったり、友人だったり、同僚であったりして、そのなかでも特に自分が気を許している「安心できる人」が引き受けている。で、そんな人はたくさんいるわけではないので、特定のごみ箱に捨て続け、結構簡単にごみがあふれてしまうことになる。

ごみを持っている人は、ごみを捨てることしか考えられなくことが多い。だって自室がごみであふれて大変なのだから。そしてごみ箱にごみを投げ入れようとすると、入れることに集中し、まわりのおちているごみのことやごみ箱自身のことに目がいかなくなるようなものだ。

みなさんにとって、ごみ箱となってくれている人は、どんな人だろうか?

ごみは捨てたくなるタイミングがある。まちなかでごみを捨てたくなる感じと同じだけど、実際のまちではどこにでもごみ箱があるわけでもないので、簡単には捨てられない。一方で相手がごみ箱という人であるとき、「いつでもごみを捨てさせてくれる」と思い込んでしまう。で、ついメッセージ。

ごみ箱となってくれる人は、ごみをもっていないのだろうか?

こんな社会に生きるのだから、ごみの一つや二つもっているだろうきっと。さてごみをもっているときに、相手からのごみを受け取ることはできるだろうか?実際にそのような場面のとき、ごみの量が少ない人は、遠慮してごみを相手に渡さず、ごみが多い人・大きい人・ごみを持っていると主張できる人のごみを受け入れる立場になることが多い。またごみ箱になる人もそれをあまり負担と思っていない、むしろ積極的に受け入れることも。(聞き上手なんて言われることも)しかし何事にも限界はある。

ごみの総量vsごみ箱の容量

こんな時代なので、やはりごみの総量が上回ってしまうことが多いので、結果、ごみ箱が限界をむかえる。そこで終わりということもあるのですが、時にはさらにごみ捨てが続き、結果ごみ箱を守るために、もう捨てられないように蓋をするか、ごみ箱を隠すか。みたいなことが起きる。そこにお互い悪意はない。どちらか一方の視点だけでみれば、「受け止めてもらえなかった」「やつあたりされた」みたいな感じに見える。ただただ不幸だどちらにも。

みんながごみを貯めてはいけないので、捨て合えることがよいなとは思う。そのためにはさてどうしたらよいだろうか。

ごみ箱の数を増やすか、ごみ箱の容量を増やすか、ごみの量を減らすか、はたまた捨てたごみの分、相手のごみを受け取るか。多くの方からこぼれているごみを様子をみながら、そんな問いについてどのような方法があるのか考える日々である。

なによりそのごみはどこからやってくるのか?

人のなかに蓄積するごみ問題。個人的にどうしたらよいのか現在模索中である。ここでもそのあたりのことも書いていけたらと思う。(たぶんファンクラブ系記事だな笑)

サポーターが増えることで、山科醍醐こどものひろばの活動を中心に、子ども分野の活動が盛り上がっていきます。