SMAP解散は筋書きのあるドラマだったのか一「死」に向かって演じていくこと

今となっては、非常に残念な結果に終わったSMAP解散。

多くの世代から国民的アイドルとして認められる稀有な存在だったSMAPの解散など、およそ誰も予期できなかっただろうし、誰も望まなかっただろう。

これまでSMAP解散の理由については、ネットで多くの説が流されてきた。

その中でも一番大きなきっかけとしては、週刊文春による、当時SMAPが所属するジャニーズ事務種の副社長であった、メリー喜多川氏へのインタビューにあったことでほぼ一致するようだ。

インタビューにおけるメリー喜多川氏の一連の言動についてや、そもそも彼女を煽るようなインタビューをした文春記者にその責任を問う意見が多い。

それ以外にも、背景としての親族経営にその責任を問う意見や、組織社会における云々等、あるいは解散以前・以後のSMSPメンバーのそれぞれの想い・立場・考え方の違いなど、これらが様々複合的に織り交ざった上での結果であったと言われているようだ。


理由や背景はどうあれ、SMAPは解散した。

ファンのみならず多くの国民が彼らの解散を嘆き悲しみそして惜しんだ。

永遠に続くと思われていたこのグループの解散、あっけない終わりを迎えたことに対して、多くの国民は驚きをもってこれを迎えた。

同時におそらく、心のどこかで戦慄を覚えたのではないか。

そう、自分の気持ちや立場に関係なく、栄える者もいつかは滅びうることを、それも終わるときは一気に終わりうることを。

その最も象徴的なこととはずばり、誰にも等しく訪れうる「死」についてであろう。


「死」は本当のところ、誰にも分からないし、どうしようもないことだ。

確かに、科学技術や医療技術の発展によって、人の「死」はある程度コントロールできるようになってきたのは事実だろう。

寿命を延ばすことだけでなく、いわゆる「健康寿命」を伸ばすことにもかなり成功していると言っていいかもしれない。

また、終末期の医療に対する自らの意志を示す「リビング・ウィル」の権利、すなわち自らの「死」を「終える」ことを選ぶ権利、延命治療を望まない権利も、広く世間に認知されてきた。

しかしどうあがいてみたって、「死」とはなにか、本当のところは誰にも分からないし、完全にコントロールすることなどできない。


さて、「死」とは何なのだろうか。

「死」とはまさに「終わる」こと、そのことの最も象徴的な概念、だということを、おそらく私たちは無意識的に気付いている。

だから「終わる」ことが怖い。

何かを失う、喪失することが怖い。

「死」に向かってあらゆるものを失っていく、そうやって少しずつ「終わり」に近づいていくことを、私達は恐れ、時に見ないふりをする。

私達は「死」を忘れさせてくれる永遠の存在の表象としての「若さ」を切に願う。

たとえ、「死」を忘れようとして必死にこの現在、今にしがみついて生きていこうとすること自体、「死」に向かう道程における束の間の先延ばしにすぎないことだったとしても。

強制的に「終了」のゴングが鳴らされるまでは、「カット」の声がかかるまでは、人が「若さ」「生」にしがみつこうとするし、そのことを誰も咎めることなどできないであろう。


さて、日本の多くの国民、特にSMAPのメンバー自身、まさかこのような形でグループとしての「終わり」を迎えざるを得なくなるとは予想しなかったであろう。

彼らは俳優としても広く活躍していたが、グループとしての「カット」の声がまさかこのような形でかかることになろうとは予期できなかったであろう。

しかも、芝居における演技とは違って、人生における芝居は「カット」の後も続いていく。

予期しなかったグループとしての「カット」後も、一人一人芸能人として、いや一人の人間としてずっと演じ続けていかなければならない。

たとえ不本意な筋書きであったとしても、その役割を引き受け演じ続けていかなければならない。

そしてそれは私達にとってももちろん真実にほかならない。

誰が描いたのか分からない、いや描いた者・存在でさえ予期できなかったであろう人生の筋書きを、誰もが皆このことを受け止め、一人の人間としてその役割を演じて生きていかなければならない。

創られる、虚構を演じる、そして終わりを遂げるのはアイドルだけの特権ではないのだ。

ただ国民的アイドルであったSMAPのそれらは、最もこのことを象徴的に示していたというだけのことだ。


ただそういった中にあっても、どうにも分からない、どうしようもない中にも、その「終え方」を少しだけでも選ぶことができる。

違った「結末」を選ぶこと、筋書きを変えることができる。

場合によっては、SMAP解散はどこかの時点で回避することができたかもしれない。

あるいは、その解散の仕方を変えることができたかもしれない。

このことに関わった人の誰かが、およそ予期できないような、場合によっては不興を買うような役割を演じることで、その未来を変えることができたかもしれない。

そう、与えられた役割を演じるのが人に課された義務・宿命だというならば、それを裏切ることができるのもまた、人の権利・自由だということだ。


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