ちょっとした息抜きがやめられない
誰しも気分を変えようと思った時、それまでしていたことをやめ、ちょっとした息抜きをする
大きなことなら自分で意識できるが、些細なことだと意識さえなくやっている
例えば、パソコンの画面を見ながら仕事をしていて気分を変えたくなったとする
人によってはコーヒーを飲んだり、仕事と関係ないサイトを見たりする
こうした行為に罪悪感はなく、どうせならもっと効率よく気分転換したいと思い始める
コーヒーは濃くなり、ちょっとだけ見る仕事と関係ないサイトは、ちょっとだけ見るというより、ぜひ見たいものを探すようになる
何しろこれは息抜きなのだ
仕事を続行させるために必要であり、そこに罪悪感はない
依存症というと、日常生活を破綻させるようなギャンブル依存症とかアルコール依存症とかハードなものを連想するが、実はこれも依存症だという
ポイントは罪悪感がないということだ
「必要だからやっている」
そう感じている以上、その行為はやめられない
自分の意思でやめられないのなら、それは立派な依存症である
アル中と仕事中に仕事と関係ないサイトを見るのはどちらが重症か?
日常生活を破綻させている、という意味ではアル中だが、アル中はアル中と診断され自覚できる
一方、仕事中に仕事と関係ないサイトを見る行為は見つからないようにやっているので、誰にも注意されないという点でアル中より深刻だ
アル中は病気と診断されるので治療法があるが、仕事中に仕事と関係ないサイトを見たりコーヒーを飲んだりする行為はそもそも病気と診断されないので、それを治療してくれる医者はない
つまり、仕事中に仕事と関係ないサイトを見たりコーヒーを飲むのは、依存している自覚がないという点でアル中より重症であり、治療法がないという点でもアル中より重症だ
治療法がない病気と闘うと時間の浪費となる
肝心なのはその病気を治すことではなく、症状が発症するようなことを最初からしないことだ
仕事をしていて息抜きが必要だと感じたら、それはその仕事を終える時なのだ
しかし、実際はその日のうちにやらねばならない仕事がある
だからみんなカフェインの入った飲み物を注入して体に鞭を入れる
時間内にどれだけ多くの仕事をこなすことができるのか?
会社での人の価値はそれで測られる
だが、依存症になってまでやる価値はあるのだろうか?
依存症にならなくても、やる方法はないのだろうか?
自分の場合、そういう時は迷いなく寝ることにしている
いったん眠って仕舞えば、起きたら全てチャラになる
集中力は戻っているので息抜きは必要ない
寝るのは、昼でも夜でも関係ない
今はテレワークが多いので昼間でも簡単に眠ることはできるが、会社に毎日行っていた頃でも、私は眠くなると空いている会議室に忍び込み、椅子をどかし机の下で眠っていた
そういう会議室は私のような人間には人気らしく、行くと先客がいることも多々あった
だが相手は私と志を同じくする者、無言でスペースを共有し合った
しかし、志を同じくしない奴が入ってきて、「お前何やってんだ」と怒鳴られたらどうしよう、と考えることもあった
そんな時、私は以下のような理屈を考えながら眠りについた
食べ物の添加物を気にする人は多いが、自分が取り組むことに息抜きが混じることを気にする人はあまりいない
例えば高名な画家のアトリエにテレビが置いてあったら、かなりがっかりするのではないか?
どんな境地に達したらこんな絵が描けるのだろうそう思ってその画家の絵を観賞していたのに、「コイツ、時々テレビを見ながら描いていたのか」
「テレビを見るくらいなら描かない間はずっと寝てて欲しい」
多分そう思うはずだ
だから俺は寝ているのだ
俺は画家が一枚の絵を仕上げるように自分の仕事をしたい
だから自分のやる仕事に息抜きという添加物を入れたくなのだ、と
とは言っても私の仕事は事務職だ
画家ではない
なので、こういう理屈も考えた
ツァラトゥストラの3段の変化の中で、精神が創造的な力を発揮するためには、ラクダから獅子になり、獅子から幼子になることが必要だ、と説かれている
重い荷物を持てるだけのラクダでは、なんら創造的なことはできない
かと言ってラクダが獅子になり戦って勝ったところで新しいものが生まれるわけではない
肝心なのは幼子のような自らが運動の起点となるような発想である、というお話だ
で、子供は息抜きするだろうか?
しない
子供は飽きたら眠る
それが子供であり、大人との違いだ
だから俺は眠っている、と
だが事務職に創造性は期待されない
なので、さらにこんな理屈も考えた
オーケストラにおいて第一バイオリンと第二バイオリンを比較した調査が行われた
その結果判明したのは、第一バイオリンの人たちは第二バイオリンの人たちより昼寝の時間が長いと判明した
より高い集中力を発揮するためには昼寝は必要なのだ、と
またNASAでは積極的に昼寝の時間をとりれているという
芸術も宇宙も、やりました、というアリバイだけではどうにもならない世界である
確実な成果が必要とされる世界では、昼寝が必要なのは当たり前となっているのだ、と
事務職であっても間違いは許されない
だから俺は寝ているのだ、と
ここまで考えて会議室の床に横になっていると、気持ちも落ち着き、安らかに眠ることができる
会社の床がグランレガリアのマットレスくらい快適になる
幸い会社にいる時、寝ている会議室に誰かに踏み込まれたことはない
なので、これらの理屈を公開するのはこの場が初めてだ
これを読んだ読者のほとんどは「こんなふざけた奴がいるのか、けしからん!」と憤りを抱くのだろう
だが肝心なのは、ちょっとした息抜きというのは自分の意思ではやめられない、といことだ
もし自分の意思でやめられるのなら、その人は昼寝することなく仕事を続ければいい
だがちょっとした息抜きがやめられないのなら、即刻眠ったほうがいい
それは、それしかちょっとした息抜きをやめる方法が眠る以外ないからだ
どんな仕事であっても、眠くなったら即刻寝たほうがいい
どんな仕事であっても創造性をもって取り組もうという姿勢があるのなら、それは創造的になるからだ
息抜きしながら続ければその仕事はただのアリバイ仕事となってしまうが、昼寝しながら続ければ創造的になる
何しろ、昼寝するためには自分も相手も納得する理屈を創り出さねばならない
眠りに落ちるためには、その理屈に齟齬がないか毎回、点検しなければならない
それで頭が良くならないはずがない
昼寝するたびに脳の状態は良くなっていく
そうやって一眠りしてオフィスに戻ると、オフィスの風景は眠る前とは違って見える
一言で言うと、みんなダラダラして見えるのだ
みんな明らかに集中していない
仕事に取り組む殺気がない
時間がかかることを前提にやっていて、秒殺してやるぞ、という覇気がない
接客業なら仕方ないが、事務職で1日8時間というのは、そもそも長すぎる
息抜きしている暇があるのあるのなら、自分にとって必要なことをするべきだ
必要なことだけが連続している1日と、不必要なことが息抜きによって繋がっている1日
どちらにするかは自分の決意次第
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