【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第一章「小猿米焼く」 中編 6
長い廊下を、従者が足早に歩いて行く、板を軋ませながら。
やがて彼は、ある部屋の前に辿り着くと、戸越に、
「大郎様、失礼致します」
と呼び掛けた。
中から返事はない。
「大郎様、失礼致します」
もう一度、呼び掛けると、今度は微かに声がした。
戸を開けた。
部屋には、二人の少年が一つの長机を挟んで、書物に目を通していた。
「失礼致します」
一人の少年が顔を上げた ―― その顔は、まだ幼い。 もう一人の少年は、書物に目を通している。
「どうした?」
顔を上げた少年が訊いた。
「はい、毛人(えみし)様が、山背様がお越しになられたので、ご挨拶するようにとのことです」
幼い顔の少年は、書物に目を落としている少年を見た。彼は顔を上げない。
「分かった、すぐ行く」
幼い顔の少年が代わりに答えた。
従者は静かに戸を閉め、長い廊下を来た時と同じように足早に立ち去った。
もう一人の少年は、何事もなかったように書物を読み続けていた。
「兄上、父上がですね……」
「聞こえています」
静かに遮った。
「敏傍(としかた)、私はいま、兵法書の講読の真最中です。これが終わりましたら伺いますと、父上には言ってください」
「しかし、兄上、宜しいのですか?」
敏傍と呼ばれた幼い顔の少年は、不安そうに聞いた。
「何がですか?」
兄上と呼ばれた少年は、書物に目を落としながら聞き返した。
「いや、何って……、山背様へのご挨拶です」
山背王は、次の有力な大王候補の一人である。しかも、亡き厩戸皇子の息子でもある。そんな人に無礼を働いてはと敏傍は思った。
「後で伺いますと言ったはずです。いまここで講読を止めると、また始めからやり直さねばなりませんからね。それに、私は山背様に嫌われておりますから」
「はあ……」
敏傍は、なかなか際どいことを言うなあと思った。
彼の目の前に座っている少年が、ようやく顔を上げた。その切れ長の目は、いたって涼しい。
「敏傍、あなただけでも行って来なさい」
敏傍は、部屋を出て行った。
残された少年は、再び姿勢を整え、机に向かった。
どこかで鶯が鳴いている。
ここは、蘇我蝦夷臣(そがのえみしのおみ)の豊浦の屋敷の一室で、部屋を出て行った少年は蝦夷の次男の敏傍であり、部屋に残った少年が長男の入鹿(いるか)である。
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