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農村の共同体、お金と時間の価値について

○農村の共同体

普段から損得でつながっているわけではない

消極的な理由での繋がりである「自治会」だったり、農村での共同体。

自分は性悪説よりも性善説を信じていて、

これを非常に尊いものに感じていたけど、決してそんなことはない…。


○お金と時間の価値について

いつもSpotifyで聞いたり本を買っている「みんなでつくる中国山地」のなかで、興味深い「茅(かや)」の話があった。

いま数百万~数千万円かけてつくりあげる茅葺きの屋根が、

かつては地域のなかで「茅場(かやば)」をつくって毎年地域内で持ち回りで茅の管理、刈り取り、葺きをおこなうことで、お金をかけずに屋根をふき替えていたということ。

今は茅場をみつけ、数少ない茅葺職人を探し…という流れがあるが、数十年・百年前は地域内で完結しお金をかけずにされていた。

これは昔がお手軽!ではなく、昔の通貨が地域の人々の「時間」であり、彼らの膨大な作業の時間をもってして成り立っていたことだと思う。

この時代に、何日間も何週間も、複数人が屋根づくりに無償で取り組むなんて、無理だ。みんなそれぞれに予定があり、仕事があり、ケアの時間がある…。つまりはそれができることこそ、超贅沢、価値のあることである。

田舎と都会の間で生まれる、いろんな違和感や不都合はここが原因なのではと最近感じる。

つまりは、お金を介して物事を手に入れるか、時間を提供することで物事を手に入れるか。


ちょっと話がずれてしまうけど、

今卒論で色々忙しくて、家の周りの管理や料理、畑作業などをできてない私が、イライラしてしまうこともここにあるのかも。

時間があって、やる気があればこれらはできるけれども、時間をもったいなく感じてしまい外食や中食、ほどほどの畑作業にしてしまっている…

つまり今は、田舎でのふつうの(というか最低限の)暮らしが、できていないということ。


田舎・農村では(というか農村での暮らしがかつての日本におけるスタンダードだとしたら日本では)、いかに時間をとって居住環境をつくれるかということが、充足感…というか最低限の自分の生活に対する満足度につながるのではないだろうか。


注:日本語がめちゃくちゃで読みづらくて、すみません

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