『地理的表示(GI)』に指定された新島酒蒸留所の定番『嶋自慢』の芋version。島人の暮らし、人生の喜怒哀楽に長年寄り添ってきた、そんな島酒である。
『嶋自慢 芋』は、ベニハルカを原料に仕込んだ芋焼酎。芋焼酎は米麹が一般的だが、東京島酒では麦麹を使うのが伝統。麦麹の香ばしさに原料芋「ベニハルカ」の甘味が加わった、飽きの来ない飲み口が特徴だ。
■ブランド名『嶋自慢』は、いつ生まれたのか?
『嶋自慢』という銘柄が商標登録されたのは、 1958(昭和33)年1月11日(登録番号第512118号)である。ちなみに出願されたのは1957(昭和32)年3月5日だ。
本稿「<4>株式会社宮原のRootsを探れ!」で各種資料をひっくり返した際、『嶋自慢』の名称が記載された記録でたどることが出来たのは、1956(昭和31)年版の『全国酒類醸造家名鑑』までだった。
この資料によって、商標登録されていない1956年の時点ですでに『嶋自慢』を使用していたことが判明。しかし同時に、三宅島にもうひとつの”シマジマン”が存在したことも確認できた。嶋と島、一字違いで読みが同じと紛らわしいことから、翌1957年3月の商標登録出願へと拍車が掛かったのだろう。
ブランド名『嶋自慢』誕生のきっかけについては、宮原社長が自社公式ブログに父方の伯母から聞いたというエピソードを綴っている。
東京で酒屋を営んでいるその伯母は、宮原家三代目國人の一番上の姉で他の弟妹が知らないことを知っていた。その伯母から電話で聞いた話………
今から70年ほど前の昔、『嶋自慢』は芋焼酎だった。
しかし芋を原料とした製造は、麦焼酎ブームの大波を受けて芋焼酎の需要が減退した1985(昭和60)年にストップ。以来、麦にシフトして『嶋自慢・麦』となり現在に至る。移り変わる時の流れの中で、芋版『嶋自慢』の復活は2003(平成15)年まで待つこととなったのはすでに述べた。
銘柄が必要無かった量り売りの造り酒屋だった時代から、商標を取得して以来今日まで、『嶋自慢』が島民や来島者の暮らしとともに時を刻んできたのは確かである。そんな有為転変の時代相を映し出す”『嶋自慢』庶民生活史”をかいつまんで振り返ってみたい。
■生活史①-新島の暮らしと共に。戦中戦後の新島と”嶋自慢”。
時計の針を、新島酒造合名会社から宮原勇氏が独立して「宮原酒造部」となる戦後から少しだけ前、1945(昭和20)年に戻してみる。
「<2>気分だけは”旅の宿”、新島架空探訪記」でご紹介したが、本村の東に大日本帝国陸軍の飛行場が設営されたため、島は戦略的要衝と化した。そのため、硫黄島攻略が始まる1945年2月から8月までに、新島・式根島へは計14回におよぶ米軍艦載機やB29の銃爆撃を受け、島民に死傷者が発生している(『新島村史』)。
ただでさえ食糧の確保が困難を極め多くの国民が飢餓線上にあった第2次世界大戦末期。ところが『新島村史』に引用された軍関係者の回想を見ると、前田吉兵衛村長はじめ島民が部隊に協力してくれたこともあって食糧は自活できるように配慮した、とあって驚く。なんと島で飼っていた乳牛約20頭の牛乳でバターも作っていたそうな。
とは言っても戦中は国による食糧統制、さらに戦後は占領軍による統制が厳しく、地域をとわず業種を問わず醸造会社は原料の手配に苦労させられた、そんな激動の時代であった。
当時の焼酎造りに使用されていたと思われる原料については、「<4>株式会社宮原のRootsを探れ!」で紹介した宮原社長の回想にこう語られている。
筆者が住む福岡県でも、1970年代前半までは米の原料価格が高いことと政府管理で政治に左右されるため、米そのものではなく白糠で焼酎が造ることが多かったという。体験者は白糠製の焼酎は飲むのがとてもキツかったと述懐する。
さて、宮原社長の談話にあった製麺機は現在も倉庫に保管されていた。銘板を見ると、製造元『東京麺機商会』の市内局番が3桁となっている。そのため東京都の市内局番が3桁化された1960年頃から4桁となった1991年までの間に製造された機械であることが判る。が、導入の時期について新島酒蒸留所の記録には残っていない。
地域によって差はあるが、1970年代後半から1980年代にかけて減圧麦焼酎が市場を拡げてきたことから原料が麦にシフトして白糠を原料とすることは減ったようだ。この製麺機、シフトする以前に買い換えたものかもしれない。
上記画像は、同じく保存されている木製筐体の「芋摺り機」。上から蒸した芋を投入して、刃が埋め込まれたローラーで粉砕するもの。この種の「芋摺り機」「芋粉砕機」は、戦後の米統制による原料難の時代に北部九州の場合だと、焼酎専業蔵はもちろん日本酒の製造が叶わなかった清酒蔵でも使用されていて筆者は実物を見たことがある。
北部九州でも、雑穀は言うに及ばず沈没船から引き揚げた濡米や腐りかけた根菜などそのままでは食用にならない物も原料にして焼酎を仕込まざるを得ない、そういう時期があった。
それでも新島の島人たちも、本土から来た人々も、飲まずにはいられなかった。切ない時代にあってなおのこと、今日の仕事も辛かった、後は焼酎をあおるだけ。当時はまだ名がなかったであろう”嶋自慢”は、憂き世に生きる人びとの隣に在った。
■生活史②-反対派も賛成派も飲んでいた『嶋自慢』。
かつての芋版『嶋自慢』がメインだった宮原酒造合名会社の時代、それはどんな味でどんな風に島で飲まれていたのだろうか? そんな過去の情景を偲ばせる資料が、ふたつ見つかった。
時代は1945年の日本敗戦から16年後、高度経済成長期のとば口に飛ぶ。その資料は両方、奇しくも1961(昭和36)年の記録なのである。
当時新島では、島の最南端にある”端端(はばた)”に建設される自衛隊ミサイル試射場を巡って『新島ミサイル試射場』設置問題が勃発。島内が賛成派と反対派で二分される事態となっていた。当時、日本全国に広く知られた激しい闘争だったという。
その騒動の渦中に島へとやってきた反対派を応援する人物と、逆に賛成派を応援する人物、二人のエッセイが今に残っていた。
●まず反対派の人物は、当時24歳で後に作家となった石堂秀夫氏。
石堂氏は反対派を支援するため1961年4月に来島した。ところが本土から応援に駆け付けた機動隊や右翼団体との衝突は起こらぬまま、反対派島民宅での仮住まい、手持ち無沙汰の日々を送る羽目に。そこに『嶋自慢』が登場する。
まだ芋焼酎『嶋自慢』を量り売りしていた時代の記録である。
石堂氏のファーストコンタクトは”強烈な酒の臭気”だ。良質な原料の手当は厳しく、かつフーゼル油の処理も行き届いていなかった時代のこと。昔の焼酎は相当臭かった、臭いが強烈だった、だから嫌だったという話を、ここ福岡県においてもかつての状況を知る方々から聞く。
しかし、石堂氏は飲み慣れると「下手なウイスキーよりもよほどうまい」との感慨を『嶋自慢』に抱いたのである。飲んでみると判るのだ。当時はまだまだ”焼酎は貧乏人の酒”、”車夫馬丁の酒”と一般には敬遠されていた時代だったことに留意されたい。
●次は賛成派の人物、それは本土から警備の応援で派遣された第二機動隊巡査の大口 力氏である。
1961年3月、石堂氏が渡島する1ヶ月ほど前に新島へとやってきた大口氏は、強風で軋む仮設宿舎の中で同僚らと『嶋自慢』を酌み交わす。
今から63年前の新島、守るも攻めるもどちらの側でも、人と人との縁を芋焼酎『嶋自慢』が取り持っていた。どんな味がしたのだろう? 飲んでみたかったもんだ。
■生活史③-宮原社長の記憶に残る、『嶋自慢 芋』の思い出。
■時代を超えて親しまれる『嶋自慢 芋』、その推しとは?
宮原家の芋焼酎づくりは、1985年の生産休止を経て、18年後の2003年に『嶋自慢 芋』として復活した。
石堂秀夫氏のエッセイに描写された当時の製造記録は残念ながら現存していないが、復活に向けての心境や風味などについて、宮原社長ご自身に改めて語っていただくことにしよう。
本格焼酎への忌避と偏見を生み出す元となった”強烈な酒の臭気”。1970年代に入ると、減圧蒸留器の開発(1972年、福岡県八女市にある『喜多屋』が初めて実用化)とその伝播によって状況が一変する。
減圧で蒸留されたスッキリとして香り華やかな”飲みやすい焼酎”が、これまでの”臭くて飲みにくい焼酎”のイメージを吹き飛ばしてマーケットを席巻していく。それは米や麦など様々な原料に波及、”焼酎らしくない焼酎”として歓迎され、1980年代に入ると本格焼酎マーケットの拡大と業界の発展に寄与したのだった。
そんな時代の変化の中で、芋から麦へ、麦焼酎『嶋自慢』が生活史の次章を拓いていくことになる。
(<12>我が良き友よ 『嶋自慢』庶民生活史・麦編に続く)
【新島の芋異聞】 株式会社宮原の原点『新島共同商会』『新島三共合名会社』時代に使っていた原料芋は何だったのか?
先にご紹介した小説家石堂秀夫氏のエッセイ(『人と船』 (39)「新島の海 ミサイルの島に見る海の歴史と旅情」(日本海技協会 1984年)は、1961年時点における新島島民の生活の有様を知る上で貴重な証言が豊富だ。
加えて、新島とさつまいもの関係についても興味深い話が記述されている。
この”野球のボールのようなサツマイモ”は七福薯と思われる。が、次に石堂氏がまったく別の芋について言及しており、それは七福薯の日本伝来以前に新島で導入栽培されていた品種だったというのだ。
この”大瀬芋”なる芋についてはネット検索では引っ掛からなかったが、『新島炉ばなし 増補改訂版』(武田幸有 著 新島観光協会 初版1962年/再版1974年)という文献に記述が残っていた。
伊豆大瀬からもたらされたことが名称の由来と思われるこの”大瀬芋”については、旧農商務省のリストにも該当する品種が見当たらず詳細は不明。”大瀬芋”はあくまでも俗称なのだろうか。また渡辺惣助なる人物についてもプロフィールが掴めない。
なお、明治20年頃に静岡県で栽培されていたであろう品種としては「飯郷(花魁と同系)」が存在するが、それが大瀬芋であるという確証は今のところない。
さて。七福薯が愛媛の農業試験場から各県へと種芋が配布されたのは、ちょうど『新島三共合名会社』が設立された大正から昭和への時期に重なる。
新島で栽培される芋の主力が、大瀬芋から七福薯へと切り替わるタイミングに創業が重なることから、『新島共同商会』から『新島三共合名会社』の時代に焼酎製造に使われていたのは”大瀬芋”だった可能性は十分に考えられる。
(了)