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【東京島酒『嶋自慢』の飲俗學<2>】 気分だけは”旅の宿”、新島架空探訪記。

新島東側からの俯瞰。島の大きさは、南北11.5㎞、東西3.2㎞しかない(Google Earth)

■島に征く道は果てしなく遠い。だのに、行った気持ちで島語り。

かく言う私は、いまだ新島に渡ったことがない。だから、偉そうに言えない。何事も現場主義の私なのだ。

でもね、である。

なにせ、私の在所から直線距離826㎞、電車と飛行機、フェリーで移動する時間だけでも13時間以上は掛かるかという長駆、GGでは体力が保たない。それよりもなによりも、行こうにも銭が無いのだな。うぬ。

右が新島、左下が式根島(Google Earth)

ということでそこんとこ、気分だけは”旅の宿”、ああ風流だなんてひとつ短歌でもひねって嶋自慢記念日、長旅の果てに本村の民宿に泊まった心持ちで「新島」について改めて綴ってみたいと思う。

いまはwikiなどネット上の情報もたくさんあるが、ここでは原典・古典たる
 ①『新島村史』(新島村/1996年)
 ②『新島の歴史』(伊豆諸島東京移管百年史 別刷/1981年)
 ③『伊豆七島風土記』(山本操/1973年)
3冊を手元に置いてポイントを押さえてみる。

『新島村史』(筆者蔵)
『伊豆七島風土記』『新島の歴史』(筆者蔵)

もう島には何度も渡ったことがあるし先刻承知だ、と言う方は以下はスルーしていただきたい。


■伊豆諸島の中で四番目に大きな島、「新島」の地勢。

【島名の由来】

『新島の歴史』では、平安時代の歴史書『扶桑略記』に”新生島”(にいぶじま)という記録があり、これが単略化されたものという説を挙げている。

また豊臣秀吉に関わる朱印状には「伊豆国新島」、徳川時代の公文書には「伊豆国附新島」と記されているらしい。江戸というより伊豆の領域と認識されていた、ということか。

【新島の位置】
『新島村史』では、「東京都心から南南西へ約一六〇キロの太平洋上に位置し、伊豆大島から南南西へ四二キロ、伊豆半島南端からは南東へ四六キロ、三宅島からは北西へ四〇キロの位置」と紹介されている。

下の画像をクリックしていただくと解りやすい。伊豆諸島の中で新島は、伊豆大島・八丈島・三宅島に次いで四番目に大きな島だ。

東京竹芝桟橋から直線で150㎞、太平洋に浮かぶ離島「新島」(Google Map)

島の緯度としては国内では三重県鳥羽市、香川県高松市、山口県萩市と同じという。私としては当初、南のリゾートの島というイメージを抱いていたが、そんなに南国ではなかった。むしろ、私の在所よりも北にあるのだ。

西側からの俯瞰(Google Earth)

【新島名物「貸し借り無しの西ん風」】

黒潮の流れに漂うかのような新島だが、wikiによれば、

黒潮は伊豆諸島を通過する付近で幅50- 100km、流速7ノット(時速約13km)にもなる。通常は三宅島と八丈島の間を流れることが多いが、蛇行して八丈島の南や大島近海を通過することもある。

「伊豆諸島」wiki

とあって、西から黒潮が打ち寄せる新島の近海では、昔から強い西風が吹きつけるのだそうだ。

西高東低の気圧配置で寒さが増してくる冬は、島の天気は快晴でも、15m以上の風速で季節風が吹き荒れるという。新島の気候の中で最も特徴的とされる現象で、島人名付けて「西ん風」

貸し借り無しの西ん風(新島酒蒸留所公式サイトより)

『新島村史』によれば、「西高東低」の気圧配置で、西風が強い時はその配置が際だった場合に発生するという。

シベリア方面の高気圧から北西の強風が日本列島に吹き出し、それが本州の中部山岳地帯にぶつかって南北に分かれ、その南回りの強風が伊勢湾から遠州灘を越えて、西風となって新島に吹き付けるのだと。

1947(昭和22)年10月、米軍が撮影した新島本村の中心部。
中央を横に伸びる空地は1944(昭和19)年に設営された「陸軍新島飛行場」、現在の新島空港。
東西に吹く風は、飛行機が揚力を得るに役立ったのかも知れない。
(国土地理院空中写真閲覧サービス https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1)

昔から、島では「西ん風」は”貸し借りなし”と言われているそうな。

冬の前半、風が吹かない穏やかな日が続いて安心していると、大寒を過ぎた時期になって急に帳尻を合わせるかのように猛烈に吹き続けたりすることからの喩えという。つまりプラスマイナス0。

さてさて。今を去る1970〜80年代、往時は”伝説のナンパ島”と呼ばれた新島の名所「羽伏浦」など観光ウハウハ・スポットについてはここで紹介すべきところだが、それは銘柄解説の方に譲りたいと思う。


■飢饉と背中合わせの島人を支えた救荒作物 サツマイモ。

かつて、離島の暮らしは食糧不足、飢饉と背中合わせだった。

『新島の歴史』は、『八丈実記』の著者近藤富蔵が飢饉に直面して書き残したこんな感想を引用している。幕末から明治へ、近藤は殺人事件に絡んで八丈島へと流された一人だ。

牛のえさにするサツマイモの葉を一つかみ望んで珍味とす、ほどなくアカサツマ一つ二つもろうて食せしときは、天の甘露もかくやとばかり喜びぬ、サツマイモは一万人の命を代々に救う。

日本におけるサツマイモの栽培は、徳川吉宗、大岡越前、そして青木昆陽の三者が関わって行われ、1734(享保19)年に小石川養生所で試作されたのが最初とされる。その養生所で取りあげられた種芋が最初に下付されたのが伊豆七島であった。

あめりか芋(七福薯)の植え付け風景(新島酒蒸留所公式サイトより)

新島の古文書にはサツマイモ栽培前は餓死者の記録が残るが、栽培後はまったく一人の餓死者も記録されていない、と『新島の歴史』は伝える。

まさに近藤富蔵の言葉、「一万人の命を代々に救う」である。

また村役場の記録では、1898(明治31)年に島の陸産物の生産高1位となったのがサツマイモであり、51万8000貫(1942.5トン)を生産する規模へ成長するまでになっていた。

■薩摩流人とサツマイモ、そして芋焼酎。

伊豆諸島の、そして新島の芋焼酎を語る上で、流人は切っても切れない関係にある。

流人墓地(宮原淳氏提供)

1853(嘉永6)年、島津藩御用商人を勤めていた丹宗庄右衛門が八丈島へ島流しとなった。酒造りに苦労する島民を見かねた庄右衛門は、薩摩から器具を取り寄せ、すでに伊豆諸島で広く栽培されていたサツマイモを使う焼酎の製造法を伝えたのだった。

この経緯については広く知られていることなので、ここで詳しくは繰り返さない。

船出(新島酒蒸留所公式サイトより)

〽浴衣のきみは 明日葉の簪……

いいねえ、そういうシーン。一度は渡ってみたい、泊まってみたい、羽伏浦でウハウハを目の当たりにしたい、そんな新島、ぬぅあんである。


さて。新島の地勢と芋焼酎の関係を綴ったところで、次回は蔵元である株式会社宮原と新島酒蒸留所の”Once upon a time”を紐解いてみる。

<3>に続く


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