【東京島酒『嶋自慢』の飲俗學<4>】 有人島で...もうすぐ100年。株式会社宮原のRootsを探れ!
■創業1926年、株式会社宮原のRootsを紐解いてみる。
再来年の2026年、株式会社宮原は創業から100年の節目を迎える。そんなタイミングもあって『嶋自慢』、そのルーツを改めて深掘りしてみた。
まず。株式会社宮原の沿革について、東京七島酒造組合の公式サイトにはこう書かれている。
この記述を出発点にして、各種資料をひっくり返しつつ時間を遡りながら検証を行ってみた。
参照した資料は、主として『国立国会図書館デジタルコレクション』の収蔵データをベースにしている。このサイト、地方在住者として資料検索でたいへん助かる記録保管所、文字通り”Archive”だ。
■見つけた資料を基に、『嶋自慢』の時を遡っていく。
いろいろと調べた中で最も新しいものとしては、2011(平成23)年に東京都商工会連合会が発行した『農林水産資源を活用した新事業の取り組み事例集』が存在する。
これは『七福嶋自慢』の取り組みについての詳細なレポートで、その中に簡潔ながら会社沿革が記されていた。概ね東京七島酒造組合サイトとの矛盾はないが、現当主の宮原淳氏が”4代目”となっているのは誤植だろうか。★)
国立国会図書館デジタルコレクションにて「宮原酒造」で検索した結果、最も新しい資料としては、雑誌『旅』(新潮社, 1999-12)に掲載された紹介記事があった。しかし、これはネット上では閲覧できない。残念。
その次に新しいものが下記、1994年の『砂防と治水』だ。
このコラムは東京都内各地の銘酒を紹介する内容で、一覧表には「宮原酒造 嶋自慢(麦) 新島」と記されている。
次に、ネット検索で引っ掛かったのは、1989年の太平洋学会誌に掲載された全国の離島に関する記事。
伊豆諸島の一覧表には「新島 宮原酒造 嶋自慢 焼酎(米いも麦)」とあって、1989年の時点では3種の原料で造っていたことになっている。
これは、東京七島酒造組合サイトの「平成10年(1998)より米焼酎、平成15年(2003)より芋焼酎の製造を再開。 」という記述とは矛盾している。
さらに、古い記録が1969(昭和44)年刊の『全国酒類醸造家名鑑 第12版』、続いて1956(昭和31)年刊の同書。社名は「宮原酒造合名会社」とある。
1969年版には「焼酎」とだけ記載されているが、1956年版には「清酒・焼酎」と併記されている。この時点では清酒も製造していたことになっているが、これは一体どうしたことか。
『嶋自慢』が”島自慢”になっていたりとか、この手の古い資料には誤字や取り違えが結構あるのだ。
■伊豆諸島には、ふたつの”シマジマン”があった?!
ところが、上記1956年版『全国酒類醸造家名鑑』をよく見ると、誤記ではない『島自慢』があった。★)
それは三宅島の業者である坪田酒造さんの銘柄で、先の1969年版では「三自慢」となっている。さて、ふたつの”シマジマン”が結局どう着地したのか。またまた気になる点が飛び出したのだった。だが先を急ごう。
ま、とにもかくにも、以上が”株式会社宮原〜宮原酒造合名会社”時代の調査結果である。
■宮原酒造、分離独立の舞台裏。
さらに探ると、東京七島酒造組合サイトに書かれていた「大正15年(1926)清酒蔵の新島酒造として創業。戦後に宮原酒造が独立し、焼酎造りを始める 」との記述を裏付ける資料が出てきた。
1949年に刊行された『全国工場通覧 昭和25年版』がそれだが、これに「新島酒造(合)」と「宮原酒造部」という2つの組織名が記載されている。
詳細を見ると、どちらも製造品目は「焼酎」となっているが、経営者が違う。新島酒造は「森 米吉」、宮原酒造部は「宮原 勇」だ。もともとこの2者、どういう関係にあったのか。★)
”酒造部”という名称からしてもこの資料、新島酒造から宮原酒造が独立したことを裏付けるものと考えて良さそうだ。
また、両社とも製造品目が焼酎となっているのは、戦中から戦後にかけての食糧統制によって原料米が不足したことで、清酒の製造がままならなくなったからだろうと思われる。
ここからさらに、宮原社長がご実家に収蔵されていた書類などを確認したところ、『重要書類綴』という文書が出てきた。
そこには1952(昭和27)年に新島酒造合名会社の持ち分を、森米吉氏と森田幸氏から宮原勇氏と伊澤征四郎氏(勇氏の実弟)へと譲渡した上で、前者の2名が退社し後者2名が入れ替わりに入社すると記されていた。
ここまでの商号の変遷を資料をもとに時系列で整理すると、
①1949年:『全国工場通覧 昭和25年版』→「宮原酒造部」
②1952年:新島酒造合名会社の持ち分譲り受け
③1956年『全国酒類醸造家名鑑』→「宮原酒造合名会社」
という流れとなる。
1952年から56年の間のどこか、可能性としては「宮原酒造部+新島酒造合名会社」となった1952年の持ち分譲渡の直後に「宮原酒造合名会社」へと商号変更されたのではなかろうか。
■新島酒造のそのまた奥にある、真のRootsとは?
資料探しに取りかかった当初、「宮原酒造」で探しても1945(昭和20)年以前の戦中戦前の情報は出てこなかった。
それもそのはず、分離以前の会社名は「新島酒造合名会社」だったわけで、本稿冒頭の東京七島酒造組合サイトや都の資料を確認してやっと解った。ま、勇足とはこのこと。
さらに調べを進めた結果、「新島酒造」以前に存在した別の組織や名称が浮かび上がってきたんである。
上記は1936(昭和11)年の『日本酒類醤油大鑑』の記載だが、この時点では「新島酒造合名会社」となっているが、問題は次。
これは1930年の記録で、伊豆諸島各地の生産組合について列挙している。その中に「新島酒造組合」なる組織がある。組合というからには、複数の蔵元が営業していたのだろうか。
新島酒造から宮原酒造が分離して2社になったのも戦後だし、小さな島で組合が結成されるほど業者がいたのかどうか。自家醸造はすでに禁止された時代でもある。謎、なのだ。
さらに遡ると、「新島三共合名会社」という企業にぶち当たった。
これは、新島本村の元村長だったという前田音松なる人物が代表を務めていた組織である。
この「新島三共合名会社」については1928(昭和3)年12月の「官報」に、代表者と商号変更の記録が残っていた。
同年5月に代表社員である前田音松氏が亡くなって、二代目?の前田音松氏が家督相続して入社したとあり、さらに同年10月「新島酒造合名会社」へと商号を変更したと記録されているのである。
つまり、この「新島三共合名会社」こそが、現在の「株式会社宮原」の原点、Rootsだったのだ。
代表者であった前田音松氏だが、宮原氏一族とはどんな縁(えにし)があったのかどうか、気になるところではあるが。
更に下記2つの資料を見ると、新島三共合名会社は「大正十五年七月」創業とあって、本稿冒頭に掲げた株式会社宮原の企業沿革にある創業の年紀と合致する。
『帝国銀行会社要録』には「出資人員三名」とあることから、”三共”という社名を採用したのだと思われる。さて、その三名とは誰だったのか、宮原勇氏は加わっていたのだろうか、否か。
この新島三共合名会社への宮原家の参画について、それを示唆する資料を宮原社長が発見した。1951(昭和26)年7月25日に勇氏が芝税務署に提出した一年免許を永久免許へ変更するための『酒類製造免許申請書』である。
この書類に添付された宮原勇氏の履歴の中に下記のような記述があった。その時系列に新島三共合名会社の創業を加えてみると、
となる。「1926(大正15)年4月 企業合同に依り酒類製造を休止」という一行に目が止まる。
あくまでも推論だが、1926(大正15)年7月の新島三共合名会社の創業に先だって、同年4月に勇氏は家業を休止し、他の2者と合同して三共の立ち上げに至ったのではないか。
時系列で見るとそういう次第に思えるが、話はもう100年前のこと。友よ、答えは西ん風に吹かれている。”The answer is blowin’ in the West wind”。
というわけで、株式会社宮原はつまり、
”有人島で……”100年の歳月の間に「新島三共合名会社」→「新島酒造合名会社」→(分離独立)→「宮原酒造部」→「宮原酒造合名会社」→「株式会社宮原/新島酒蒸留所」という変遷を辿ってきた、のであった。
これにて一件落着。
そもそも論としての『嶋自慢』の100年を遡る資料渉猟の旅は、ひとまず創業年紀の裏付けが取れたことでけりがついた。
次回は、株式会社宮原の社長と杜氏を務める宮原 淳氏のプロフィールについて簡単ながらご紹介したい。
(<5>「ぷらいべえと-Portrait of 新島酒蒸留所」へ続く)
◆
(本編の続編<7>「続・株式会社宮原のRootsを探れ!」へJump)
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