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【東京島酒『嶋自慢』の飲俗學<4>】 有人島で...もうすぐ100年。株式会社宮原のRootsを探れ!

1950(昭和25)年1月、現在の社屋前で演じられる獅子舞風景。
写真中央、梅鉢紋が入った提灯の真下にいるのが祖父勇氏、その右が兄の利雄氏。
(宮原淳氏提供)

■創業1926年、株式会社宮原のRootsを紐解いてみる。

再来年の2026年、株式会社宮原は創業から100年の節目を迎える。そんなタイミングもあって『嶋自慢』、そのルーツを改めて深掘りしてみた。

まず。株式会社宮原の沿革について、東京七島酒造組合公式サイトにはこう書かれている。

大正15年(1926)清酒蔵の新島酒造として創業。戦後に宮原酒造が独立し、焼酎造りを始める。
平成10年(1998)より米焼酎、平成15年(2003)より芋焼酎の製造を再開。
平成20年(2008)10月、組織変更により宮原酒造合名会社から社名変更。
平成26年(2014)製造場を移転、新島酒蒸留所として製造を開始。

(西暦)は筆者が補足

この記述を出発点にして、各種資料をひっくり返しつつ時間を遡りながら検証を行ってみた。

参照した資料は、主として『国立国会図書館デジタルコレクション』の収蔵データをベースにしている。このサイト、地方在住者として資料検索でたいへん助かる記録保管所、文字通り”Archive”だ。

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■見つけた資料を基に、『嶋自慢』の時を遡っていく。

いろいろと調べた中で最も新しいものとしては、2011(平成23)年に東京都商工会連合会が発行した『農林水産資源を活用した新事業の取り組み事例集』が存在する。

これは『七福嶋自慢』の取り組みについての詳細なレポートで、その中に簡潔ながら会社沿革が記されていた。概ね東京七島酒造組合サイトとの矛盾はないが、現当主の宮原淳氏が”4代目”となっているのは誤植だろうか。★)

★)「現当主の宮原淳氏が”4代目”となっているのは誤植だろうか。」

【宮原社長談】
「4代目というのは、島に渡ってきた宮原家としてのものです。初代は宮原國太郎(くにたろう/曾祖父)。職業は警察官だったと聞いています。

最初の妻りょうが病弱だったため、生活環境を変えるために島の勤務を希望したようです。いくつかの島を渡り歩いていたそうで、利島勤務時に長男・利雄(大伯父)が生まれた。しかしその後、りょうが亡くなり、後妻に玉尾を迎えた。その玉尾の息子が私の祖父・勇(いさむ)です。

新島に居を構えた長男利雄は郵便局長や雑貨を扱うお店などやっていました。祖父の勇はとても経営感覚が鋭かったようで朝鮮から焼酎を輸入したりとか、事業を手広くやっていたそうです。

父は國人(くにと)。男女三人ずつ、6人兄弟の3番目で長男。昭和13年元日生まれ、平成15年1月3日に亡くなりました」

【宮原家4代系図】
①國太郎=りょう→利雄
    =玉 尾→②勇(いさむ)→③國人(くにと)→④淳(あつし)

『POPEYE』1978年6月増刊号「The Surf Boy」の新島特集に登場した祖父の故宮原 勇氏。
勇氏の鋭敏な経営感覚というニュアンスが伝わってくる描写である。
(宮原淳氏提供)
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国立国会図書館デジタルコレクションにて「宮原酒造」で検索した結果、最も新しい資料としては、雑誌『旅』(新潮社, 1999-12)に掲載された紹介記事があった。しかし、これはネット上では閲覧できない。残念。

その次に新しいものが下記、1994年の『砂防と治水』だ。

『砂防と治水』全国治水砂防協会 [編](1994年)「砂防と銘酒(東京都)」水川智雄
同上

このコラムは東京都内各地の銘酒を紹介する内容で、一覧表には「宮原酒造 嶋自慢(麦) 新島」と記されている。

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次に、ネット検索で引っ掛かったのは、1989年の太平洋学会誌に掲載された全国の離島に関する記事。

伊豆諸島の一覧表には「新島 宮原酒造 嶋自慢 焼酎(米いも麦)」とあって、1989年の時点では3種の原料で造っていたことになっている。

「島嶼研究・関西部会 報告『島を語るー日本の離島をめぐって(巡って)ー』
太平洋学会誌(1989年)

これは、東京七島酒造組合サイトの「平成10年(1998)より米焼酎、平成15年(2003)より芋焼酎の製造を再開。 」という記述とは矛盾している。

【宮原社長談】
「私は中学まで新島で、高校は公立全寮制秋川高校に進学しました。その後、東京農大に進み、7年間の東京生活の後、新島に戻りました。

卒業して戻ったときにはすでに麦焼酎専業になっていました。

仕込場の横には”製麺機”というふだん酒造では使わない機械があって、なにに使うのか聞いたところ、白糠に水を加えて練って焼酎の原料にしていたというんです。本来はうどん屋さんがうどんをこねる機械だそうです。探したらまだどこかにあるかもしれません。

戦後に軍の指導で焼酎をつくることになったと聞いた記憶もあります。祖父がしまい込んだ書類の中に”泡盛製造方法”という手書きの資料もありましたし、ヒエやアワで焼酎を造ったこともあったと聞きました。

平成10(1998)年に米で焼酎を造りたいと父に言ったときには『食えるもので焼酎がつくれるなんて、幸せな時代になったなあ』としみじみ言っていました」

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さらに、古い記録が1969(昭和44)年刊の『全国酒類醸造家名鑑 第12版』、続いて1956(昭和31)年刊の同書。社名は「宮原酒造合名会社」とある。

全国酒類醸造家名鑑 第12版(昭和44年度増補改訂版) 醸界タイムス社(1969年)

1969年版には「焼酎」とだけ記載されているが、1956年版には「清酒・焼酎」と併記されている。この時点では清酒も製造していたことになっているが、これは一体どうしたことか。

『嶋自慢』が”島自慢”になっていたりとか、この手の古い資料には誤字や取り違えが結構あるのだ。

『全国酒類醸造家名鑑』 醸界タイムス社(1956年)

■伊豆諸島には、ふたつの”シマジマン”があった?!

ところが、上記1956年版『全国酒類醸造家名鑑』をよく見ると、誤記ではない『島自慢』があった。★)

それは三宅島の業者である坪田酒造さんの銘柄で、先の1969年版では「三自慢」となっている。さて、ふたつの”シマジマン”が結局どう着地したのか。またまた気になる点が飛び出したのだった。だが先を急ごう。

ま、とにもかくにも、以上が”株式会社宮原〜宮原酒造合名会社”時代の調査結果である。

★)誤記ではない『島自慢』があった。

【宮原社長談】

「三宅島の島自慢さんの件は、ある日突然同じ名前の焼酎が出てきたので、商標登録をした……というようなざっくりした話しか聞いていません。今にして思えば、『嶋自慢』という名前はなんと素晴らしいのだろう、おじいちゃんグッジョブとしか言えません」

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■宮原酒造、分離独立の舞台裏。

さらに探ると、東京七島酒造組合サイトに書かれていた「大正15年(1926)清酒蔵の新島酒造として創業。戦後に宮原酒造が独立し、焼酎造りを始める 」との記述を裏付ける資料が出てきた。

1949年に刊行された『全国工場通覧 昭和25年版』がそれだが、これに「新島酒造(合)」と「宮原酒造部」という2つの組織名が記載されている。

『全国工場通覧 昭和25年版』 通商産業省大臣官房調査統計部(1949年)

詳細を見ると、どちらも製造品目は「焼酎」となっているが、経営者が違う。新島酒造は「森 米吉」、宮原酒造部は「宮原 勇」だ。もともとこの2者、どういう関係にあったのか。★)

”酒造部”という名称からしてもこの資料、新島酒造から宮原酒造が独立したことを裏付けるものと考えて良さそうだ。

また、両社とも製造品目が焼酎となっているのは、戦中から戦後にかけての食糧統制によって原料米が不足したことで、清酒の製造がままならなくなったからだろうと思われる。

★)「新島酒造は「森 米吉」、宮原酒造部は「宮原 勇」だ。もともとこの2者、どういう関係にあったのか」

【宮原社長談】
昭和のはじめ頃の新島酒造は、祖父の勇に、森米吉さんと森田幸さんという三者でやっていたらしいんですよ。

そこから別れて、森米吉さんのところは酒販店に転業し……現在は電気工事店になられてますね。森田さんのところも酒販店と電気店をされてましたが廃業されました。

分離独立については結局のところ、勇は新島酒造の払い残しの税金なのか負債なのかを引き受ける形で宮原酒造として独立した、と聞いています。

祖父がどんな人でしたか、ですか? 祖父も、そして父も瞬間湯沸器、カミナリオヤジでそりゃ恐い人でしたよ(笑)

私の一回りくらい上のアンキラ(先輩たち)には、うちに泊まり込みで麹を造っていたというひとが何人かいました。店の二階に麹室があって、夜中に祖父に手入れの時間だと叩き起こされて大変だった、祖父はめちゃめちゃうるさい人だったと。孫の私達には普段はとても優しかったですが」

1949(昭和24)年に宮原勇氏に出された乙類製造免許。
『全国工場通覧 昭和25年版』出版の年にあたるが、免許は個人名。
(宮原淳氏提供)

ここからさらに、宮原社長がご実家に収蔵されていた書類などを確認したところ、『重要書類綴』という文書が出てきた。

そこには1952(昭和27)年に新島酒造合名会社の持ち分を、森米吉氏と森田幸氏から宮原勇氏と伊澤征四郎氏(勇氏の実弟)へと譲渡した上で、前者の2名が退社し後者2名が入れ替わりに入社すると記されていた。

(宮原淳氏提供)

ここまでの商号の変遷を資料をもとに時系列で整理すると、
①1949年:『全国工場通覧 昭和25年版』→「宮原酒造部」
②1952年:新島酒造合名会社の持ち分譲り受け
③1956年『全国酒類醸造家名鑑』→「宮原酒造合名会社」
という流れとなる。

1952年から56年の間のどこか、可能性としては「宮原酒造部+新島酒造合名会社」となった1952年の持ち分譲渡の直後に「宮原酒造合名会社」へと商号変更されたのではなかろうか。

【宮原社長談】
「株式会社にするとき会社の定款をデータにしてありました。新島酒造が宮原酒造になったのは昭和27年(1952年)ですね。(資料が)ポロポロと出てきて、お手数をおかけします(笑)」

()書きは筆者が追加
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■新島酒造のそのまた奥にある、真のRootsとは?

資料探しに取りかかった当初、「宮原酒造」で探しても1945(昭和20)年以前の戦中戦前の情報は出てこなかった。

それもそのはず、分離以前の会社名は「新島酒造合名会社」だったわけで、本稿冒頭の東京七島酒造組合サイトや都の資料を確認してやっと解った。ま、勇足とはこのこと。

さらに調べを進めた結果、「新島酒造」以前に存在した別の組織や名称が浮かび上がってきたんである。

『日本酒類醤油大鑑』醸界新聞社 編(1936年)

上記は1936(昭和11)年の『日本酒類醤油大鑑』の記載だが、この時点では「新島酒造合名会社」となっているが、問題は次。

『自治団体之沿革』篠田皇民 東京都民新聞社(1930年)

これは1930年の記録で、伊豆諸島各地の生産組合について列挙している。その中に「新島酒造組合」なる組織がある。組合というからには、複数の蔵元が営業していたのだろうか。

新島酒造から宮原酒造が分離して2社になったのも戦後だし、小さな島で組合が結成されるほど業者がいたのかどうか。自家醸造はすでに禁止された時代でもある。謎、なのだ。

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さらに遡ると、「新島三共合名会社」という企業にぶち当たった。

これは、新島本村の元村長だったという前田音松なる人物が代表を務めていた組織である。

『市町村治績録』日本自治協会 編(1929年) 
同上の続き

この「新島三共合名会社」については1928(昭和3)年12月の「官報」に、代表者と商号変更の記録が残っていた。

同年5月に代表社員である前田音松氏が亡くなって、二代目?の前田音松氏が家督相続して入社したとあり、さらに同年10月「新島酒造合名会社」へと商号を変更したと記録されているのである。

『官報』 1928年12月17日

つまり、この「新島三共合名会社」こそが、現在の「株式会社宮原」の原点、Rootsだったのだ。

代表者であった前田音松氏だが、宮原氏一族とはどんな縁(えにし)があったのかどうか、気になるところではあるが。

前田音松氏:『新島村史』の年表を見ると、同氏は1924(大正13)年10月28日に二代目の本村村長に就任している。次の村長青沼義規氏は1928(昭和3)年5月27日に就任しているが、それは官報で解るとおり、その2日前5月25日に前田音松氏が逝去した事を受けての交代だったのだろう。

ちなみに、年表では前田音松氏の前の初代村長も前田姓で、以後も前田姓の村長が散見される。遡って近世の項には、天保期に名主や神主、地役人として前田姓が見られる。前田氏はいわゆる新島の名家、分限者の家系と思われる。
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2024年4月7日追記:『新島炉ばなし 増補改訂版』(武田幸有著、新島観光協会刊 1974年)に依ると、前田家(徳松氏)は江戸期に多くの回船を所有していた上に幕府御用船も務めて大いに栄えた、とある。

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更に下記2つの資料を見ると、新島三共合名会社は「大正十五年七月」創業とあって、本稿冒頭に掲げた株式会社宮原の企業沿革にある創業の年紀と合致する。

『日本工業要鑑  昭和3年度(第18版)』工業之日本社(1927年)
『帝国銀行会社要録 昭和2年』帝国興信所(1927年)

『帝国銀行会社要録』には「出資人員三名」とあることから、”三共”という社名を採用したのだと思われる。さて、その三名とは誰だったのか、宮原勇氏は加わっていたのだろうか、否か。

この新島三共合名会社への宮原家の参画について、それを示唆する資料を宮原社長が発見した。1951(昭和26)年7月25日に勇氏が芝税務署に提出した一年免許を永久免許へ変更するための『酒類製造免許申請書』である。

『酒類製造免許申請書』 1951(昭和26)年7月25日(宮原淳氏提供)

この書類に添付された宮原勇氏の履歴の中に下記のような記述があった。その時系列に新島三共合名会社の創業を加えてみると、

1908(明治41)年7月24日生まれ
1924(大正13)年3月 長野県伊北農□□□3年修了(文字判読できず)
1924(大正13)年4月 酒類製造並に販売の家業に従事
1926(大正15)年4月 企業合同に依り酒類製造を休止す
→(注 1926(大正15)年7月 新島三共合名会社 創業)
1946(昭和21)年10月 東海汽船株式会社 新島及式根島荷扱所を経営現在に至る。
1948(昭和23)年2月 酒類製造の免許(1年限り)下附現在に至る。

となる。「1926(大正15)年4月 企業合同に依り酒類製造を休止」という一行に目が止まる。

あくまでも推論だが、1926(大正15)年7月の新島三共合名会社の創業に先だって、同年4月に勇氏は家業を休止し、他の2者と合同して三共の立ち上げに至ったのではないか。

時系列で見るとそういう次第に思えるが、話はもう100年前のこと。友よ、答えは西ん風に吹かれている。”The answer is blowin’ in the West wind”。

【宮原社長談】
「祖父の履歴で『大正13年家業の酒類製造並びに販売に従事』とありますね。曽祖父がやはり初代で私は4代目なのか、よくわからなくなります(笑)」

And Now

というわけで、株式会社宮原はつまり、

”有人島で……”100年の歳月の間に「新島三共合名会社」→「新島酒造合名会社」→(分離独立)→「宮原酒造部」→「宮原酒造合名会社」→「株式会社宮原/新島酒蒸留所」という変遷を辿ってきた、のであった。

これにて一件落着。

【宮原社長談】
「今になってみると、詳しく聞かなかったことを悔いてはいますが、おとなになってからのことしか確実なことはわかりません。

かつての弊社は小売店舗の裏に蒸留器をおいて、3階で麹と一次仕込み、2階で二次仕込み、地下に原酒タンクがあるという造りでした。上から下まで走り回って作業していましたが、40歳くらいのときにこのままでは体力が持たなくなる…….と思い、製造場の移転を決意しました。

くさや製造をしていた伯父(母の兄)から土地を譲り受け、現在の場所に新島酒蒸留所を建てたのです。

平成8(1996)年に結婚して、子供が生まれて、『嶋自慢』をもっともっと売っていかなければと考えるようになりました」

2024(令和6)年3月、現在の株式会社宮原社屋前に立つ宮原社長と櫻井浩司さん。

そもそも論としての『嶋自慢』の100年を遡る資料渉猟の旅は、ひとまず創業年紀の裏付けが取れたことでけりがついた。

次回は、株式会社宮原の社長と杜氏を務める宮原 淳氏のプロフィールについて簡単ながらご紹介したい。

Back To The Future

<5>「ぷらいべえと-Portrait of 新島酒蒸留所」へ続く

(本編の続編<7>「続・株式会社宮原のRootsを探れ!」へJump)


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